バルカン半島問題担当特使への就任
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「リチャード・ホルブルック」の記事における「バルカン半島問題担当特使への就任」の解説
ホルブルックは次官補退任の際、クリントン大統領からバルカン半島問題で挙げた功績を評価され、バルカン問題担当特使(特別代表)に「(政府の人間ではなく)民間人として」就任するよう直々に打診を受けていた。 この打診を受け、彼は1997年に「民間人として」バルカン問題担当特使に就任し、1999年に国連大使に就任するまでの間、同職を務めた。この時には、バルカン問題担当と併せてキプロス問題担当特使のポストも受命している。また、特使を務めるにあたっては無報酬を原則としていた(いわゆるプロボノ)。 特に1998年から翌1999年にかけては、コソヴォ紛争の解決に向けて尽力した。しかし和平交渉は困難を極め、1999年3月18日には、解決に向けて提案されたランブイエ合意にセルビア側が署名を拒否するなど、交渉は再び行き詰まりの様相を呈した。これを受けてホルブルックは3月21日、ユーゴスラビアの首都・ベオグラードを訪問し、当時のスロボダン・ミロシェヴィッチ大統領に対し事実上の最後通告を突きつけている。しかしミロシェヴィッチ側はこれを黙殺する姿勢をとったため、NATO軍は3月24日より空爆(アライド・フォース作戦)を開始し、ユーゴスラビアに対する武力行使・介入に踏み切ることとなった。 この特使在任中には、自身のバルカン半島問題に関する体験について大量の文章を書き記しており、1998年にこれを1冊の本にまとめ、出版した。この“To End a War”と名付けられた回顧録では、デイトン合意成立に向けた和平交渉を担当していた頃の体験などが記されている。この本は大きな反響を呼び、ニューヨーク・タイムズ紙の編集者が選ぶ「1998年に出版・発売された11冊の良書」のうちの1冊に選ばれるなど、好評を博した。 ただし、この回顧録の内容については異論もある。例えば、スルプスカ共和国元大統領のラドヴァン・カラジッチや、デイトン合意へ向けての和平協議にも参加したボスニア・ヘルツェゴヴィナの元外相ムハメド・サツィルベイ(英語版)などは、「ホルブルックはカラジッチとの間で、カラジッチが大統領職を辞任し政界から身を引くなら、その見返りとして旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)による訴追を受けない(身の安全を保障する)旨の密約を結んでいた」と主張している。ただしホルブルック自身は、このカラジッチの主張に「全くの嘘だ」と反論し、密約の存在を否定している。
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