バルカン戦争と第一次世界大戦
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「ギリシャ王国」の記事における「バルカン戦争と第一次世界大戦」の解説
1911年9月、イタリアとオスマン帝国の間で伊土戦争が勃発、オスマン帝国の落日が明らかになるとバルカン諸国はオスマン帝国の分割の協議を行っていた。そこでヴェニゼロスはブルガリアと同盟を結び、戦争準備を整えていたが、1912年9月25日、モンテネグロがオスマン帝国に宣戦布告したことにより、第一次バルカン戦争が勃発した。ギリシャは10月5日、コンスタンティノス王太子を総司令官として参加、テッサリアをブルガリア軍よりも先に占領、フロリナ、カストリアを占領、ギリシャ海軍もエーゲ海の制海権を掌握した。 マケドニアはギリシャ、ブルガリア、セルビアの係争地と化し、各地で同盟国同士での対立が生じていた。オスマン帝国はブルガリア、セルビア、モンテネグロの休戦には成功したが、ギリシャはこれを拒否、イオニアの割譲、アドリア海の支配確立をもくろんでいた。事態収拾のために12月3日にロンドン講和会議が召集されたが、オスマン帝国が強硬な姿勢を崩さなかったために24日には中断、1月21日には再び戦いが再開されることとなった。この最中、列強は和解へ向けて仲介したため、1913年5月17日、ロンドン和平条約により、第一次バルカン戦争は終結した。 しかし、マケドニアを巡る争いは終結しておらず、ギリシャはテッサロニキを巡ってブルガリアと対立、同じくブルガリアを脅威と考えていたセルビアと相互防衛条約の締結に至った。しかし、この直後の1913年6月16日、ブルガリア軍が攻撃を仕掛ける事件が発生、ここに第二次バルカン戦争が開始されることとなったが、ルーマニアとトルコが参戦したため、ブルガリアは降伏、1913年7月28日にブカレスト講和条約が調印されることとなった。この戦いにより、ギリシャはカヴァラを獲得、ギリシャ・トルコ間の戦いもアテネ条約により、11月1日に終結した。ギリシャは2度のバルカン戦争を通して、国土は90%、人口が80%増加したが、新たに少数民族を抱えた上に、未回収の地域も存在、さらに戦費の消費による莫大な赤字を抱えることとなった。ヴェニゼロスはこれらの戦争による財政赤字などにより国力が低下したため、戦争を望んでいなかったが、1914年6月、サラエボ事件が発生すると、ギリシャも巻き込まれることとなった。 第一次世界大戦が勃発することにより、ギリシャは複雑な関係に巻き込まれることとなった。中央同盟側のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はギリシャ王コンスタンデイノス1世の義兄にあたること、中央同盟国であるオーストリアに敵対するセルビアとバルカン戦争時に相互防衛条約を結んでいること、また、ギリシャは建国以来、中央同盟と敵対する三国協商国であるイギリス、フランス、ロシアの保護国であったことや、フランスからの借款でギリシャの経済が成り立っていたことなどが存在し、さらにオスマン帝国やブルガリアの立場が不明であったことであった。このため、連合国はオスマン帝国とブルガリアを敵陣営に引き込む可能性が存在することを考え、また、ギリシャ軍内部にも親ドイツ派が存在していたことからギリシャは中立の方針を採用することとなった。 しかし、1914年、オスマン帝国が中央同盟国側に参戦したことにより、イギリスはアナトリアの西海岸を与えることを約束してギリシャへの参戦を促したが、イオニアス・メタクサスを中心とする親ドイツ派の軍幹部、国王らが反対したためヴェニゼロスは辞任して選挙を行い、これに勝利した上で再度、首相に着任したが、このときは参戦しなかった。しかし、10月、ブルガリアが中央同盟側で参戦すると連合国はギリシャへ参戦の圧力をかけ始めた。議会はセルビア支援の決議を行ったが、国王はこれに反対、ヴェニゼロスは解任された。 この最中、連合軍はテッサロニキへ上陸し、エーゲ海北岸を占領、崩壊したセルビア軍支援のための圧力をかけており、さらにブルガリア軍はギリシャ領であったマケドニアに侵攻、カヴァラも占領された。この事態に至って、ヴェニゼロスはテッサロニキで臨時政府の樹立を宣言、ギリシャは二分割されることとなった。ここで激しい戦闘が行われたが、1917年6月、国王コンスタンディノス1世が亡命、ヴェニゼロスはアテネへ戻り、議会の再召集を行い国王支持者追放、さらに基盤を固めたが、これにより、ヴェニゼロス派と国王派との対立は和解構築が不可能な状況に追い込まれていた。その後、ギリシャ議会は中央同盟側との国交断絶と宣戦布告を決定、これによりバルカン戦線は連合側に有利に働き、第一次世界大戦は連合側の勝利で終了、ギリシャは戦勝国となった。
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