バルカン方面での勝利と崩御
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 06:34 UTC 版)
「ムラト2世」の記事における「バルカン方面での勝利と崩御」の解説
1444年、ローマ教皇・エウゲニウス4世の命により、ブルガリアに侵攻してきたハンガリー軍と戦って勝利を収めた(ヴァルナの戦い)。 同年、元々、文化人の気質がありスーフィーに熱心であったことから、これを期に隠退して子のメフメト2世に一時帝位を譲る。しかし若年のメフメト2世には官僚も従わず、遠征にも失敗したため、1446年に自ら復位した。 1448年、コソボでセルビアをはじめとするキリスト教国の軍と戦って、またも勝利を収め、東ローマ帝国を次第に圧迫していった。しかしムラト2世には東ローマ帝国を滅ぼすまでの意思は無かったようで、ヨハネス8世の後を継いだコンスタンティノス11世ドラガセスの即位を承認し、和平条約を結んでいる。 1451年2月に崩御。親東ローマ派だった彼の崩御は東ローマ人を大いに悲しませた。次代は、子のメフメト2世が復位した。このメフメト2世が1453年に東ローマ帝国を滅ぼすことになる(コンスタンティノープルの陥落)。
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