バルカン戦争と統一と進歩委員会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 03:00 UTC 版)
「大宰相府襲撃事件」の記事における「バルカン戦争と統一と進歩委員会」の解説
襲撃の実行犯である統一派は当初からクーデターを計画していたわけではなかった。1912年の「第二の革命」での敗北の後、政府によって徹底的に弾圧された統一派は大幅にその勢力を減らしており、また組織の中核メンバーでもあったエンヴェルやケマルらの陸軍の青年将校の多くが伊土戦争参加のために義勇軍としてリビアへと渡っていたことは組織の弱体化に拍車をかけた。苦境に追い込まれた統一派はイスタンブルに残った中心メンバーであるタラートを中心にバルカン戦争に向けての挙国一致を実現するため、わだかまりを捨てて政府への協力を表明する。バルカン戦争開戦以後、統一派メンバーたちは首都イスタンブルなどで積極的に集会などを開催し、国内での戦争協力の意識を高めるための積極的な活動を行った。 こうした状況が一転したのは1912年の11月であった。ギリシャ軍の進撃によってルーメリ最大の都市であり、統一派の本部が設置されていたサロニカが陥落すると、統一派は組織として壊滅的な被害を被る。 同時期に、オスマン政府の方針がルーメリの割譲へと傾き始めると、ルーメリ出身者を多く抱える統一派は政府への批判を公然と口に出し、徹底抗戦を訴えるようになっていく。更に12月末頃にエンヴェルがリビアから帰国すると、エンヴェルのリーダーシップのもとで統一派は息を吹き返す。伊土戦争での経験から、列強主導の協調外交に不信感を強めていたエンヴェルは協調外交を頼みとした外交を展開する政府に強く反発し、政府を打倒することで祖国を救うという思想を強め、彼の思想は周囲に伝播していくことになる。
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