ロンドン講和会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 03:00 UTC 版)
「大宰相府襲撃事件」の記事における「ロンドン講和会議」の解説
12月3日に停戦が成立したのち、12月16日からはロンドンでバルカン戦争の講和条件をまとめるためのロンドン講和会議が開催される。開戦前はオスマン帝国の拡大を恐れて「いかなる領土の変更も認めない」と宣言していた列強諸国であったが、予想外のオスマン軍の敗戦を受けて自身の国益に直結するバルカン諸国の領土拡大に躍起になった。特にアドリア海への進出を果たしたいセルビアを汎スラヴ主義の見地から援護するロシア帝国とセルビアの拡大を恐れるオーストリア=ハンガリーの争いは激化した。 こうした列強諸国の領土的野心が介在する講和会議の序盤でオスマン帝国のバルカン領の喪失はほぼ決定事項となったが、一方で停戦成立時に未だ陥落していないオスマン側の諸都市の処遇は講和会議の最も重要な焦点となった。特に重要な議題はエディルネの処遇であった。オスマン帝国の旧都であり、首都イスタンブルに接続する要地でもあるエディルネは、第一次バルカン戦争中は名将メフメト・シュクリュ・パシャの指揮下でブルガリアとセルビアの連合軍相手に奮戦しており、1913年に入ってもなお健在であった。エディルネ攻略のために多数の犠牲を払ったブルガリアはなんとしてもエディルネを確保しようとオスマン帝国にエディルネの割譲を要求し続けたが、一方のオスマン帝国も帝国の旧都であるために国家の威信にかかわる同市の割譲を頑なに拒否した。 エディルネを巡る問題が膠着状態に陥ると、セルビア政府は汎スラヴ主義の盟主であるロシア帝国の協力を求め、これによってロシア皇帝ニコライ2世による介入が行われることになる。ロシアはブルガリアへのエディルネ割譲が行われない場合はバルカン戦争への参戦も辞さないという姿勢を見せてオスマン帝国を圧迫したため、これ以上他国と戦争を行う余力のないオスマン帝国はエディルネの割譲を決定せざるを得ない状況に追い込まれる。 オスマン政府はエディルネの割譲が在野で反政府運動を行う統一派ら愛国者たちを刺激し、国内の治安悪化をもたらすと主張して割譲を断り続けたがロシアの圧力は日に日に増し、1913年1月半頃にはエディルネの割譲を決定した。しかしこのエディルネの割譲条件には、在エディルネのムスリムたちの保護権をオスマン帝国が有するなど、キャーミル政府のささやかな抵抗が現れており、決して無抵抗の割譲ではなかった。
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