ロンドン証券取引所の陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 10:15 UTC 版)
「ビッグバン (金融市場)」の記事における「ロンドン証券取引所の陥落」の解説
1975年、ノリッジ・ユニオン(現アビバ)がイサーク準男爵のAP銀行を買収した。 1976年2月ロッキード事件が起こり、合衆国最高裁判所が政治献金について、憲法第一修正条項で保護されている政治言論の自由であるが、腐敗防止のために献金額は制限できると判断した(Buckley v. Valeo)。 同年4月、英国病のキャラハン内閣が立って、ポンドが暴落し公定歩合が15%に引き上げられた。シティ勢のセカンダリー・バンキングは全力で外貨を買ってポンドを売ってきた。しかしポンド建ての対外債務(いわゆるポンド残高)を払うよう、イングランド銀行は海外の機関投資家から催促されたのであろう。翌1977年2月、イギリスは公的ポンド残高の一部を外貨建債務に切替える一方、その純減に対して先進諸国が総額 30億ドルの信用供与を行った(第3次バーゼル協定)。 1976年、公正取引庁が取引規制について調査を開始した。これは同年に競争制限的取引慣行規正法が改正されたことによる。運輸、住宅金融組合金利、保険を除くサービスも対象に加えられた。1978年にブローカーの最低手数料、ブローカーとジョバーの兼業禁止、取引所の会員権の制限を競争制限的であるとした。1979年にロンドン取引所のルールが競争制限的取引慣行規正法に抵触するか調べられた。1983年に証券取引所理事長と貿易産業大臣の間に、改革をめぐる和解が成立した。取引所のルールは例外とみなされることになった。その代わり、取引所理事会へロンドン証券界外部の人物を入れることが約束された。理事会は46人の会員とイングランド銀行の代表1人から構成されていたが、1983年12月に外部者5人が参加し、全員で52人となった。キャドバリー報告の先駆ともいうべき措置であった。1986年3月に取引所理事会を「最適化」する方針が決まった。1987年6月までにロンドン証券取引所の理事を52人から25人に減らし、外部者は理事総数の「1/4以上1/3以下」に比率を引き上げるというのであった。 1983年、ノリッジ・ユニオンは子会社のAP銀行をリッグス銀行(旧第二合衆国銀行)へ3590万ドルで売却した。 イギリス以外も狙われた。1983年にカナダ、1984年にオーストラリアで証券市場の規制が撤廃されていた。 1982年から1985年で、ポンド建てユーロ債の起債額は3億ポンドから48億ポンドに急拡大した。 イギリス本国では同時期から実質的に銀証分離が撤廃された。ブローカー・ジョバー企業の株式を、証券取引所会員でない者、つまり銀行が100%保有できるようになったのである。その結果、大手マーチャント・バンクと海外金融機関がブローカー・ジョバー企業の買収合戦を展開し、彼らがビッグバンのインフラを先に完成させてしまった。
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