南部イタリア防衛戦
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「イタリア戦線 (第二次世界大戦)」の記事における「南部イタリア防衛戦」の解説
「イタリア侵攻 (第二次世界大戦)」も参照 連合軍は1943年8月17日にシチリア島を解放、続く9月3日にイタリア半島の先端部に上陸(ベイタウン作戦)し、9月9日にサレルノ(アヴァランチ作戦)、ターラント(スラップスティック作戦)へ上陸を行った。水面下で連合軍との降伏交渉を続けていたバドリオ政権は、連合軍の上陸と同時に休戦を表明した。ムッソリーニの逮捕から後、バドリオ政権に不審な動きがあるのを察知していたドイツ軍は、イタリア降伏によっても浮き足立つことなく直ちに部隊を展開させイタリア軍を武装解除、主要地点の占領に入った。イタリア北部はエルヴィン・ロンメル元帥が、イタリア南部はアルベルト・ケッセルリンク元帥が指揮をとり9月下旬にはイタリア半島をほぼ占領した。 連合軍はバドリオの提案に乗る形でイタリア半島への上陸と同時にローマへ空挺降下してイタリア軍と共同でローマを制圧(南部に展開するドイツ軍の連絡線を遮断)するジャイアント作戦を計画、米82空挺師団長のマシュー・リッジウェイはテイラー准将をローマに送り込んでイタリア軍を偵察させたが、兵員や武器弾薬の不足、ドイツ軍の展開などを理由に作戦中止を決断、師団の壊滅を免れた。 バドリオの政府は、休戦を表明するやただちにイタリア半島南部のブリンディシに脱出した。この後降伏文書に調印(9月)、ドイツに宣戦布告を行った(10月)。ただし、連合国に加入したわけではなく、共同参戦国という扱いであった。一方、9月に逮捕され幽閉されていたムッソリーニはオットー・スコルツェニー率いるドイツ軍部隊によって救出され、ドイツの後押しでイタリア北部にイタリア社会共和国(サロ共和国、サロ政権)を樹立した。しかしサロ共和国はドイツの傀儡政権でしかなく、何の権力もない名前だけの存在であった。 イタリア半島南部から北上してくる連合軍に対し、ケッセルリンク元帥率いるドイツ軍は、「ラインハルト線」「ヒトラー線」「グスタフ線」「カイザー線」という4重もの防衛線を敷き、抵抗を続けた。イタリア半島は山がちであるため防御側に有利で、戦車を効果的に使えない連合軍の進撃は非常にゆっくりとしたものであった。しかしその背後ではパルチザンが徐々に活動を広げ、補給の妨害などを始めていた。
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