南部イタリア防衛戦とは? わかりやすく解説

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南部イタリア防衛戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 02:57 UTC 版)

イタリア戦線 (第二次世界大戦)」の記事における「南部イタリア防衛戦」の解説

イタリア侵攻 (第二次世界大戦)」も参照 連合軍1943年8月17日シチリア島解放、続く9月3日イタリア半島先端部に上陸ベイタウン作戦)し、9月9日サレルノアヴァランチ作戦)、ターラントスラップスティック作戦)へ上陸行った水面下連合軍との降伏交渉続けていたバドリオ政権は、連合軍の上陸同時に休戦表明したムッソリーニ逮捕から後、バドリオ政権不審動きがあるのを察知していたドイツ軍は、イタリア降伏によっても浮き足立つことなく直ち部隊を展開させイタリア軍武装解除主要地点占領入ったイタリア北部エルヴィン・ロンメル元帥が、イタリア南部アルベルト・ケッセルリンク元帥指揮をとり9月下旬にはイタリア半島をほぼ占領した連合軍バドリオ提案乗る形でイタリア半島の上陸と同時にローマへ空挺降下してイタリア軍共同ローマ制圧南部展開するドイツ軍連絡線遮断)するジャイアント作戦計画、米82空挺師団長のマシュー・リッジウェイテイラー准将ローマ送り込んでイタリア軍偵察させたが、兵員武器弾薬の不足、ドイツ軍の展開などを理由作戦中止決断師団壊滅免れたバドリオ政府は、休戦表明するやただちにイタリア半島南部ブリンディシ脱出したこの後降伏文書調印9月)、ドイツ宣戦布告行った10月)。ただし、連合国加入したわけではなく共同参戦国という扱いであった一方9月逮捕され幽閉されていたムッソリーニオットー・スコルツェニー率いドイツ軍部隊によって救出されドイツ後押しイタリア北部イタリア社会共和国サロ共和国サロ政権)を樹立した。しかしサロ共和国ドイツ傀儡政権でしかなく、何の権力もない名前だけの存在であったイタリア半島南部から北上してくる連合軍対し、ケッセルリンク元帥率いドイツ軍は、「ラインハルト線」「ヒトラー線」「グスタフ線」「カイザー線」という4重もの防衛線を敷き抵抗続けたイタリア半島は山がちであるため防御側に有利で、戦車効果的に使えない連合軍の進撃は非常にゆっくりとしたものであった。しかしその背後ではパルチザン徐々に活動広げ補給妨害などを始めていた。

※この「南部イタリア防衛戦」の解説は、「イタリア戦線 (第二次世界大戦)」の解説の一部です。
「南部イタリア防衛戦」を含む「イタリア戦線 (第二次世界大戦)」の記事については、「イタリア戦線 (第二次世界大戦)」の概要を参照ください。

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