南北分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 05:42 UTC 版)
匈奴の漢への侵寇・略奪は日に日に激しくなったが、蒲奴(在位:46年 - ?年)が単于に即位すると、匈奴内で日照りとイナゴの被害が相次ぎ、民の3分の2が死亡するという大飢饉に見舞わされた。漢がこの疲弊に乗じて攻めてくることを恐れた蒲奴は、使者を漁陽まで派遣して和親を求めた。 時に右薁鞬日逐王の比(ひ)は南辺八部の大人(たいじん:部族長)たちに推戴され、呼韓邪単于(本当の単于号は醢落尸逐鞮単于)と称して南匈奴を建て、独立すると共に漢を味方につけた。南匈奴は北匈奴の単于庭(中国語版)(本拠地)を攻撃し、蒲奴を敗走させた。これにより蒲奴の権威は失墜し、その配下の多くが南匈奴へ流れて行った。
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