カアン位をめぐる争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 15:15 UTC 版)
「エル・テグス」の記事における「カアン位をめぐる争い」の解説
同年8月、病状が悪化したジャヤガトゥ・カアンはエル・テグスやエル・テムルらを集め、オングチャドでの1件(自らが即位するため、兄のコシラを毒殺したこと)を心から悔いていると語り、自らの死後はコシラの長男のトゴン・テムルを後継者に迎えるよう遺言し、間もなく亡くなった。しかし、ジャヤガトゥ・カアンを事実上の傀儡としていたエル・テムルはコシラ暗殺の首謀者であったため、トゴン・テムルに報復されることを恐れ、遺言を無視してエル・テグスを即位させようとした。 しかし、ジャヤガトゥ・カアンの寡婦のブダシリとメルキト部のバヤンはジャヤガトゥ・カアンの遺言をたてにエル・テグスの即位を認めず、双方の妥協案としてトゴン・テムルの弟で、未だ幼児のリンチンバルを擁立することとなった。ところがそのリンチンバルも即位後わずか数カ月で亡くなってしまい、カアン位を巡る争いが再燃することとなった。 以前と同様にエル・テムルはエル・テグスを、ブダシリとバヤンはトゴン・テムルをそれぞれ即位させようとして譲らず、カアン位はなかなか決しなかった。最終的に、バヤンらにとっては都合良くエル・テムルが急死したため、後ろ盾を失ったエル・テグスは敗れトゴン・テムルがウカアト・カアンとして即位することとなった。なお『元史』によると、この時「武宗・仁宗の時と同様にトゴン・テムルの後はエル・テグスに位が譲られる」という約束がなされたという。
※この「カアン位をめぐる争い」の解説は、「エル・テグス」の解説の一部です。
「カアン位をめぐる争い」を含む「エル・テグス」の記事については、「エル・テグス」の概要を参照ください。
カアン位をめぐる争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:57 UTC 版)
詳細は「モンゴル帝国帝位継承戦争」を参照 モンケの急死により、その年若い息子達にかわって3人の弟達が後継者となる可能性が生じた。アリクブケはこのとき首都のカラコルムにおいてモンケの留守を守っており、モンケの重臣達やモンゴル高原以西の諸王・諸部族はアリクブケの支持に回ったので、アリクブケが有力な後継者候補に立った。一方のクビライは、モンケが死んだとき中軍が北帰して取り残されて長江の中流域で転戦していたウリヤンカダイを救出したことから、前線の中国に駐留する諸軍団やモンゴル高原東部のモンゴル貴族、王族を味方につけることになった。1260年、クビライの本拠地の金蓮川でクビライ支持派によるクリルタイが開かれ、クビライのカアン即位を一方的に宣言した。5月にはアリクブケもこれに対抗してカアン即位を宣言し、モンゴル帝国はクビライとアリクブケの2人のカアンが並び立つ帝国の南北分裂に発展した。 三弟のフレグは遠くイランにおいて西アジアの征服事業を進めていたため、皇帝位を巡る争いは次弟のクビライと末弟のアリクブケが当事者となった。この内紛では精強な東部の諸部族を味方につけたクビライ側が緒戦のシムルトゥ・ノールの戦いに勝利し、早々に華北と高原の大半を制覇した。一方のアリクブケは高原北西部のオイラト部族の援助を受けて一時は高原中央部のカラコルムを取り戻すが、中国農耕地帯の豊かな物資を背景にクビライが行った経済封鎖によって自給のできないカラコルムはたちまち危機に陥った。1264年、アリクブケは降伏し、クビライが単独の皇帝となった。
※この「カアン位をめぐる争い」の解説は、「クビライ」の解説の一部です。
「カアン位をめぐる争い」を含む「クビライ」の記事については、「クビライ」の概要を参照ください。
- カアン位をめぐる争いのページへのリンク