カアン擁立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 18:43 UTC 版)
「バヤン (バアリン部)」の記事における「カアン擁立」の解説
バヤンが大都に帰還してまもない翌1294年1月にクビライは死去し、後継者を決めるクリルタイが上都に召集された。テムルは既に帝位継承者として宣言されていたが、長兄カマラを推す声もあり、諸王侯の間で一時紛糾した。その際、一身上の尊敬を受け、総司令官の高位にあり、来会者の中で最も勢力のあったバヤンが剣を握って立ち、「先帝が指名していた皇子以外のいかなる人をも即位させるわけにはいかない」と語調を強めて宣言し、論争を終止させた。こうして、バヤンとその影響下の大兵団を後ろ盾としたテムルがオルジェイトゥ・カアンとして即位した。バヤンはテムル政権の重臣筆頭として開府儀同三司、太傅、録軍国重事の称号を与えられ、年若いカアンを支えたが、1295年1月に59歳で急逝した。彼の死は、あまねく中国人にもモンゴル人にも惜しまれたと伝えられる。
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