匈奴の南北分裂とは? わかりやすく解説

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匈奴の南北分裂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 08:52 UTC 版)

モンゴルの歴史」の記事における「匈奴の南北分裂」の解説

呼韓邪単于以降匈奴と漢の関係は良好であったが、中国新都侯の王莽政権掌握し、漢を倒して新を成立させると、中国内外暴政布いたため、近隣諸国から反感を買った。これに対して烏珠留若鞮単于在位:前8年 - 13年)は呼韓邪単于以来続いてきた和平決裂させ、たびたび中国侵入略奪繰り返すうになる地皇4年23年9月更始軍が長安攻め王莽殺害新朝滅亡する25年には光武帝のもとで後漢成立するこの間にも匈奴侵入略奪続いており、呼都而尸道皋若鞮単于在位18年 - 46年)は後漢対し、新を倒せたのは匈奴のおかげだと主張中国に対して優位な立場立とうとした。しかし、彼の子蒲奴単于在位46年 - ?年)の時代になり、匈奴国内で旱(ひでり)と(いなご)の被害が相次ぎ国民3分の2死亡するという大飢饉見舞わされた。これに乗じて烏珠留若鞮単于の子である右薁鞬日逐王の比は匈奴に対して独立宣言し南匈奴建国(これに対し、もとの匈奴北匈奴と呼ぶ)。自身呼韓邪単于なぞらえ後漢同盟組んだ南匈奴北匈奴単于庭本拠地)を攻撃し単于蒲奴敗走させた。これにより単于蒲奴権威失墜し、その配下多く南匈奴流れて行った

※この「匈奴の南北分裂」の解説は、「モンゴルの歴史」の解説の一部です。
「匈奴の南北分裂」を含む「モンゴルの歴史」の記事については、「モンゴルの歴史」の概要を参照ください。

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