匈奴の右校王として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 14:56 UTC 版)
李陵の才能と人柄を気に入った且鞮侯単于は李陵に部下になるように勧めるが李陵は断っていた。しばらくしてから武帝は後悔し、李陵の残部に褒美を与え、公孫敖に命じて李陵を迎える。しかしこの計画は失敗した。逆に公孫敖は匈奴の捕虜から「李将軍」が匈奴に漢の軍略を教えていることを聞いた。武帝は激怒し、李陵の妻子をはじめ、祖母・生母・兄と兄の家族、そして従弟の李禹(李敢の子)一家らをまとめて皆殺しにした。隴西では李氏のことを恥じたという。しかし実際には「李将軍」とは、李陵より先に匈奴に帰順した漢人の李緒という将軍のことであった。 漢の使者からこのことを聞いて李陵は一族の非業の死に嘆き悲しみ、その李緒を自ら殺害した。そのため大閼氏(且鞮侯単于の母)は怒って李陵を殺害しようと計画した。且鞮侯単于は李陵を北方に匿った。大閼氏の死後、李陵は内地に戻り、後に且鞮侯単于の娘を娶って、その間に子を儲けた。彼は単于からの頼みで匈奴の右校王となり、数々の武勲を立て、紀元前74年に没した。 匈奴の王女との間に儲けた李陵の子は、呼韓邪単于の時代に、別の単于を立てて呼韓邪単于に叛き、呼韓邪単于によって処刑されている。 かつて匈奴へ使節として赴いた人物の中で、李陵とは対照的に漢に忠節を貫く頑な態度を取ったのが、かつて李陵とともに侍中として武帝の側仕えをした蘇武であった。李陵は節を全うしようとする蘇武を陰から助けている。
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