匈奴・フン同族説の沿革
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「フン族の起源」の記事における「匈奴・フン同族説の沿革」の解説
1757年、フランスの歴史学者ジョゼフ・ド・ギーニュが初めてヨーロッパのフン族と匈奴の関連性を指摘した。彼は両者の遊牧民としての習俗や集団名の類似性に着目している。ただしギーニュは文化的・言語学的・民族的な関連付けには興味を示さず、何らかの政治的な組織が存在して両者を「フン族」たらしめたと考えた。両集団を結び付ける考え方は、イギリスの歴史家エドワード・ギボンが『ローマ帝国衰亡史』 (1776年-1789年)の中で紹介したことで広く知られるようになった。ギーニュ説を解釈したギボンによれば、イランの(白い)フン族とヨーロッパのフン族は、かつて中国の近くに存在した匈奴の帝国が崩壊した際に生き残った2つの別個の集団が起源となったのだという。これ以降、匈奴・フン同族説はフン族を扱う多くの歴史家たちに瞬く間に受容されていった。 19世紀、言語学者の間では匈奴とフン族の言語の関連性を見出そうとする議論が活発に行われていた。この時期の学者たちは言語と民族を極めて密接に関係しているものと考えていたため、地理的に遠く隔てられた両民族が同じ言語を共有していたと立証することが不可欠であると思われていた。匈奴・フン同族説が広く受け入れられた一方で、フン族はフィン・ウゴル語派の言語を話し、匈奴はチュルク語族あるいはモンゴル語族の言語を話していたと考えて、両者の関連性を否定する学者も少なくなかった。また19世紀ロシアの学者の中にはフン族がスラヴ語派の言語を話していたと考え、非スラヴ語派の匈奴とは別物であるとする者もいた。19世紀後半の歴史学者・古典学者ジョン・バグネル・ベリーは最初ギーニュやギボンの説に疑義を示し、匈奴とフン族はたまたま名前が似ていただけだと主張したが、後に立場を改めて両者の関係性を認めた。 20世紀初頭、ドイツの中国学者フリードリヒ・ヒルト(英語版)は、『魏書』を中心に中国の史書を検討し、フン族と匈奴の間の繋がりが立証されたと主張した。ヒルトの研究は広く認められ、1940年代には匈奴とフン族に何らかの関係性があるというのが歴史家や考古学者の間での定説となっていた。ところが1945年、オーストリア出身のアメリカの歴史学者オットー・メンヒェン=ヘルフェンが、ヒルトは中国史書を誤読しているという主張を行った。メンヒェン=ヘルフェンの研究により、ヒルトの説は「大打撃をこうむった」。さらにメンヒェン=ヘルフェンは、当時の考古学や民族誌学に基づいた定説に疑義を示した。彼の主著The World of the Huns (1973年)ではこの問題に触れていないが、その他のいくつかの著作で、フン族と匈奴をその名前を根拠に同一視する説に反論している。著名なユーラシア学者デニス・サイナー(英語版)は、このメンヒェン=ヘルフェンの懐疑論を採用している。エッシェーとレベディンスキーは2007年に、フン族は匈奴の統治下あるいは影響下にあった中央アジア・南シベリアあたりから来たとするのが妥当だろうと述べている。 クリストファー・ベックウィズ(英語版)は、2009年に「ユーラシア学者の一般的なコンセンサス」として、匈奴とフン族は無関係であるという見解を示した。一方でこれに対する反論も、歴史家のエティエンヌ・ド・ラ・ヴァシエール(英語版) (2005年・2015年)、歴史家・言語学者のクリストファー・アトウッド(英語版) (2012年)、考古学者の林俊雄 (2014年)、歴史家のキム・ヒョンジン (2013年・2015年)らから出ている。しかし一方で、こうした両者の関連性を主張する説について、2020年にはアレクサンドル・サヴェリエフやジョン・チュンウォンらが「現代の学術界ではほんの限られた範囲でしか支持されていない」と述べている。2007年の時点で林俊雄は、ロシア・ハンガリー・ドイツでは同族説が有力だが、それ以外では懐疑論や証拠不十分であるという研究者が多いとまとめている。
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