本国と植民地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 07:46 UTC 版)
この航海条例は本国と植民地の相互関係にあったが、反対運動も起こった。ジェームズ2世が、条例を悪用して植民地の自主性を妨害したことへの非難や、この条例の課税手段化への反発もあった。また、本国の産業を守るために、帽子作りや羊毛工業に歯止めをかけ、植民地産業のダメージをもたらした。1750年にも、競合を避ける意味から、植民地の錬鉄や鋼加工の発達に待ったをかけたこともあった。 帽子や鉄鋼にまつわるあからさまな制限、あるいは密輸は、かなり一般的に行われ、17世紀から18世紀にかけては、北アメリカへ、複雑な海岸線を利用しての密輸が後を絶たず、本国政府もこれへの対応が遅れていた。それ以外に関税機関の職権乱用や、賄賂、偽造などが密輸を手助けした。18世紀半ばには、密輸が当たり前になり、砂糖法(1764年)や茶法(1773年)が定められたが、密輸業者への懲罰というよりは、アメリカの愛国者蜂起の火に油を注ぐ結果となった。イギリス帝国の貿易は、アメリカ植民地あってこそのもので、また、ニューイングランドの造船産業は、航海条例による保護貿易の恩恵を受けていた。その後に開かれた第一回大陸会議では、ベンジャミン・フランクリンにより、航海条例をアメリカの諸植民地に沿って制定するという提案がなされた。 1707年の合同法施行までスコットランドは外国として扱われ、1670年から1779年の間、アイルランドは条例の適用外だった。
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