本国との齟齬から退任まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 17:43 UTC 版)
「クロード・マクドナルド」の記事における「本国との齟齬から退任まで」の解説
1905年に第二次日英同盟が成立した際は前回とは異なり、本国に召還されなかった。マクドナルドは徐々に本国政府より信頼されなくなっており、部下のホレース・ランボルド(英語版)も日記に「政府は大使のことを信頼しておらず、大使が日本の立場で物事を判断しすぎると考えている」と綴った。1911年、アスキス首相は更新期限を迎えた日英同盟について延長を閣議決定したが、この際にも東京の大使館側にはほとんど相談がなかった。この頃マクドナルドは大陸への膨張を始める日本を肌身に感じており、本国外務省に「牽制のため、あえて更新しないという選択肢も考慮すべき」と緊急打電した。しかしエドワード・グレイ外務大臣は最終的に「同盟の延長見送りは日本に良くない印象を与える」と返電し、暗にマクドナルドの視野が狭すぎると伝えた。 1912年7月、明治帝が崩御し、元号が『大正』へと改まった。直後マクドナルドは即位した大正天皇について、その健康状態を憂慮する旨をロンドンに報告している。こうしたなか11月初頭、12年の大使生活に終止符を打って日本を離れた。 帰国後の1915年9月10日にロンドン、チェスター・スクエア(英語版)40番地にて死去した。ブルックウッド墓地(英語版)に埋葬された。
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