本国での接種
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 10:21 UTC 版)
「チャールズ・メイトランド (医師)」の記事における「本国での接種」の解説
メアリーの夫エドワードが本国に召還されたため、ウォートリー・モンタギュー夫婦は1718年7月にコンスタンティノープルを発ち、1721年4月にロンドンに戻った。このとき、イングランドでは天然痘が流行しており、メアリーは3歳の娘メアリーにも人痘接種を行うようメイトランドに求めた。メイトランドは自身のキャリアに悪影響をおよぼすことを恐れ、再度接種を行うことに気が進まなかったが、最終的にはほかの医師が立ち会うことを条件に同意した。立会人の1人であるジェームズ・キース(James Keith)はすでに天然痘で子女を数人失っていたが、接種の有効性を見て、唯一生き残った6歳の息子ピーター(Peter)に即座に接種を受けさせた。 接種法の口コミはメアリーの友人からたちまち王家に広まり、1721年8月9日にはニューゲート監獄の囚人6名に対する接種試験の認可状がメイトランドに与えられた。このとき、健康体の死刑囚6名が初代準男爵サー・ハンス・スローンにより選ばれ、囚人が試験への参加に同意した場合、恩赦が与えられることを確約した。囚人6名は接種を受けた後、発症したが全員が生存し、9月6日に恩赦を受けて釈放された。さらに10月にそのうちの1名が天然痘に直接さらされながらも生存したことで免疫が証明された。メイトランドはこの結果を接種の有効性を示すものとして扱ったが、接種に反対していた医師ウィリアム・ワグスタッフは囚人の病状が天然痘のそれとはかなり異なるとして、説得力がないと批判した。 11月、ウェールズ公妃キャロラインは孤児に接種の試験を行うことを提案、メイトランドは翌1722年3月にロンドン(セント・ジェームズ・ウェストミンスター教区(英語版))の孤児6名を対象に試験を行い、やはり成功を収めた。それ以外にも1721年10月に1人、1722年2月から3月にかけて7人の接種を行った。ウェールズ公妃は試験の成功を見て、1722年4月17日に娘アメリア(英語版)とキャロラインへの接種を行わせた。しかし、同年にアバディーンシャーで6人への接種を行ったときに1人が死亡したため、アバディーンシャーでは接種が不人気だった。これは人痘をVariola minor(天然痘ウイルスのうち、毒性の弱いタイプ)にかかった患者から取る必要があるため、接種を行う医師の(毒性の強さを見抜く)技量にかかるという人痘接種のリスクを示している。一方で王家からの支持は続き、1724年にはハノーファーでウェールズ公の息子フレデリック・ルイスの接種を行った。
※この「本国での接種」の解説は、「チャールズ・メイトランド (医師)」の解説の一部です。
「本国での接種」を含む「チャールズ・メイトランド (医師)」の記事については、「チャールズ・メイトランド (医師)」の概要を参照ください。
- 本国での接種のページへのリンク