本国への帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:17 UTC 版)
「フランクリン (空母)」の記事における「本国への帰還」の解説
ゲーレス艦長の決定を受け取ったデヴィソン少将は、フランクリンの消火・救助活動のために可能な限りの援助を申し出た。第58.2.9任務群が急遽編成され、大型巡洋艦「アラスカ」および「グアム」、重巡洋艦「ピッツバーグ」、軽巡洋艦「サンタフェ」、それに3個駆逐隊がこれに続いた。フランクリンが自力航行できるようになるまで他の艦が曳航することになり、14時頃には「ピッツバーグ 」の牽引のもと、ウルシー泊地に向け出発した。 その後も日本軍の攻撃は続いた。3月19日14時35分頃、3月20日の14時52分頃、さらに21日の11時51分頃にも日本機が接近したが、「フランクリン」の対空火器および友軍機により撃退した。 艦内の火災は3月22日朝にようやく完全に鎮火し、「フランクリン」は3月24日にウルシー泊地に到着、さらに14ノット(26km/h)の速度で真珠湾に到着し応急処置を行った。その後、自力でニューヨークのブルックリン海軍工廠へ向かい、4月28日に到着して修理が開始された。到着の際、乗組員の艦内での復旧作業に関する論争が生じた。ゲーレス艦長は火災を避けて海に飛び込んだ乗員達を「艦を放棄した」として非難した。ウルシー泊地への帰路において、艦に留まったとされる704名をゲーレス艦長は「ビッグ・ベン704クラブ」のメンバーであると宣言した。しかしながら実際には艦に留まったのは約400名であった。 ゲーレス艦長の采配ぶりについては、強引で独裁的であるとして前々から非難も挙がっていた。「フランクリン」が応急処置のため真珠湾に到着した際も、現地の手順では民間人の港湾誘導員が艦に乗り込んでドックまで誘導することになっていたが、ゲーレス艦長は「自分が艦を連れて行く」と言って断った。結局、速度を出しすぎたため「フランクリン」をドックの壁に衝突させてしまった。 「ピッツバーグ」に曳航される「フランクリン」 自力で本国へ向かう(1945年4月26日撮影) 帰国途上、格納庫で礼拝行事を行う 4月28日、ニューヨークに到着
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