本国召還、死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:24 UTC 版)
「ウィリアム・フィップス」の記事における「本国召還、死去」の解説
フィップスの粗野な振る舞いは敵意を募らせ、隣接植民地の総督とは軍事がらみで口論し、ロードアイランドとは州境の問題を悪化させた。他の植民地政府の役人と2度取っ組み合いのけんかをしたことなどはダドリーと他の政敵により商務院に強調して報告され、航海条例を反故にしたこと(当時は総督であり、当然施行すると思われていた)で告訴され、政敵達には「違法的で利己的な商業行為」といわれた。政敵への攻撃を含めたフィップスの自己正当化は、政敵たちと仲の良い植民地執政官ウィリアム・ブラスワイトは、インクリース・マザー同様に彼を支持したが、フィップスへの批判を克服させるには十分ではなかった。 1694年7月4日、フィップスは、本国の商務院に出頭するようにとの正式な召喚命令を受けた。その年の夏、彼はヌーベルフランスとの境界であるペマキッドで防御の監督をしており、一方で副総督のストウトンが審問の証拠を集める作業の監督をしていた。11月17日、フィップスはイングランドに向けて出発し、1694年(1695年)1月1日にロンドンに着いたが、着くや否や大げさな罪を着せられて逮捕された。この罪状はダドリーが課したもので、関税金を保留するための策略だった。 ダドリーは2万ポンドの保釈金でフィップスが帰国できないことを望んでいたが、サー・ヘンリー・アシャーストにより釈放された。しかしフィップスは弁護の準備をしている時に発熱して体調を崩し、1694年(1695年)2月18日、審問が行われる前に死亡した。遺体は聖メアリー・ウールノス教会の中庭に埋葬された。当初は墓碑があったが、18世紀の修復のさなかに取り外され、棺も違う場所に移された可能性がある。
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