その後の本国と植民地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 01:44 UTC 版)
「ラム酒の反乱」の記事における「その後の本国と植民地」の解説
マッコーリーは、ジョンストンとマッカーサーに解雇された官僚を復職させ、ブライの官職剥奪以来行われてきた、土地と貯蔵物の払い下げを撤回したが、ことを穏便に進めるため、自身が適切な資金援助を行って、払い下げ撤回への報復を起こさせないようにした。マッコーリーの到着を知ったブライはシドニーへ向かい、1810年1月17日に到着して、予定されているジョンストンの軍法会議の証拠を集めた。ジョンストンは5月12日に裁判のためイギリスに発ち、1810年10月25日にヒンドスタンに乗艦して戻ってきた。 ニューサウスウェールズとイギリス双方の非公式な主張によれば、イギリスの政府筋は、マッカーサーとジョンストンがブライを告発したことも、ブライの、植民地での重要人物の容認できない行為を告発した、苛立ちをかくせない手紙も痛感してはいなかった。ジョンストンは軍法会議で有罪となり、懲戒免職された。可能な限りの一番軽い罰則だった。これでジョンストンは自由市民として、自分の地所である、シドニーのアナンデールに戻ることができた。マッカーサーは裁判を受けなかったが、1817年までニューサウスウェールズに戻るのを拒否された。彼は自分の不正行為を認めたからだった。 ブライの少将への昇進は、ジョンソンの裁判まで延ばされた。その後、書類の日付を1810年7月31日までさかのぼらせ、ブライは保留されていた昇進を受けた。海軍本部で引き続き軍人としての職務についたが、指揮官として艦を与えられることはなく、1817年にガンで死亡した。 マッコーリーはフォヴォーの行政を強く脳裏に焼き付けた。タスマニアの総督代理を決める際、マッコーリーはコリンズの後継者としてフォヴォーを強く推薦した、彼以外にふさわしい者は考えられなかったからだ。その一方でブライに関しては、その代理はできないと考えていた。しかし、1810年にフォヴォーが帰国すると、彼はブライの官位剥奪と投獄に同意したかどで軍法会議にかけられ、マッコーリーの推薦は無視された。1811年にフォヴォーは現役に復帰して、グリーク軽歩兵隊(英語版)の中佐に昇進し、その後は平凡な軍人としての人生を送って、最終的に中将にまで昇進した。
※この「その後の本国と植民地」の解説は、「ラム酒の反乱」の解説の一部です。
「その後の本国と植民地」を含む「ラム酒の反乱」の記事については、「ラム酒の反乱」の概要を参照ください。
- その後の本国と植民地のページへのリンク