その後の曹氏
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曹奐の没後も晋朝および南朝宋冊封下の諸侯王として存続していた様子がある。子孫は魏の滅亡から200年以上、二王朝の下で陳留王を相続した。 曹奐の子の名は不明だが、曹奐が死んだ2年後、永興元年(304年)に西晋の成都王司馬穎に九錫を下賜された際、陳留王(名不詳)が司馬穎に貂蝉・文衣・鶡衣を贈ったと『晋書』「恵帝紀」にある。太寧3年(325年)、曹操の玄孫である曹勱が東晋によって陳留王に封じられた。升平2年(358年)に死去し、興寧元年(363年)に子の曹恢が跡を継いだ。曹恢は太元3年(378年)に死去し、太元8年(383年)に子の曹霊誕が跡を継いだ。曹霊誕は義熙4年(408年)に死去した。元熙2年(420年)、劉裕が東晋から禅譲を受けて南朝宋を建国したが、劉裕に禅譲を勧める上奏に、陳留王曹虔嗣が名を連ねている。曹虔嗣は同年に死去し、弟の曹虔秀が跡を継いだ。曹虔秀は大明6年(462年)に死去し、子の曹銑が跡を継いだ。曹銑は元徽元年(473年)に死去した。昇明3年(479年)、蕭道成が南朝宋から禅譲を受け南朝斉となったが、蕭道成に禅譲を勧める上奏に、陳留王曹粲が名を連ねている。同年8月、曹粲は王位を除かれた。
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