その後の日韓関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 08:08 UTC 版)
この一連の事件のため、日韓関係は日韓国交正常化後当時、最悪の状態に陥った。韓国側の捜査によれば、朝鮮総連の関与は明白であったにも関わらず、日本側がそれを明確に認めなかったこと、文が所持していた拳銃が大阪府内の派出所より盗まれたものであったことによる。 謝罪のない日本側に対し、朴大統領は「日本は本当に友邦なのか?」と問いただし、ついには「中共だけが一番なのか。(日本と断交しても)安保、経済に問題はない」、「日本は赤化工作の基地となっている」という言葉まで出た。しかし、朴大統領の側近が「このまま断絶してしまえば、今までの苦労が水の泡になってしまう」と説得し、日韓双方で、 日本政府が遺憾の意を表明する。 かかる事件の再発防止。 捜査についての日本政府の協力。 日本から特使派遣の合意をすること。 という内容で合意し、最悪の事態はまぬがれた。 事件から4日後の8月19日に執り行われた葬儀(国葬)において、式を終えて涙を拭いながら青瓦台へ戻る軍服姿の朴大統領の映像が日本においても配信され、日本からは田中角栄首相が出席した。その際、田中首相の「えらい目に遭われましたね」という言葉に朴大統領は憤慨したと言われている。 加えて、8月29日に木村俊夫外相が国会答弁の中で「客観的に見て、韓国には北朝鮮による脅威はない」と述べたことで、かねてから日本国内で引き起こされた金大中事件に対する日本からの非難を受けたことにより鬱積していた反日感情が一気に爆発、連日日本大使館前には抗議のデモ隊が押し寄せ、9月6日には群衆が日本大使館に乱入し日章旗を焼き捨てる事態にまで発展した。その後急速に関係は悪化し、国交断絶寸前にまで至った。 事態を見かねた日本政府は9月19日に自民党親韓派の重鎮として、韓国国内でも評価の高かった椎名悦三郎副総裁を政府特使として訪韓させ、日韓の友好関係を改めて確認することによって両国間での問題決着がはかられた。朴大統領は椎名との面談の席上で、「日本政府が私達を友邦と考えるなら、喪中にある大統領一家や国民が悲しみと怒りに満ちているこの時に…」とし、「日本が引き続き、こんな風な姿勢を取れば、友邦とは認められないのではないか」、「(日本の姿勢は)政治と外交、法律に関係なく、東洋の礼儀上、ありえないこと」、「日本外務省には秀才やエリート官僚が集まっていると聞いたが、どうやってこのような解釈ができるのか」など、激しい言葉で日本を糾弾した。退出した椎名副総裁は「長い公職での人生でこれほど罵倒されたことはなかった」と憤懣やるかたない表情で語り、付き添っていた金鍾泌首相があわててなだめる一幕もあったという。 韓国側はこの事件の処理に強い不信感を抱き、日本側に朝鮮総連への規制を求め事実上認めさせた。また、日本政府側が求めた金大中事件の容疑者引渡し等の全容解明を拒否し、事件の解明要求と引き換えに曖昧な政治決着で問題解決を図ろうとしたと言われている。 なお、日本を朝鮮総連による「赤化工作基地」とみなす認識は、反共的な韓国の保守派・右派にとっては長らく反日感情の源泉となった。
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