その後の日本代表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 21:36 UTC 版)
日本はスウェーデン戦の2日後に行われた準々決勝でイタリアと対戦するが、疲労の蓄積が響き現地Fußball誌に「別人のような動き」と評される内容で0-8と大敗した。その後、2試合の親善試合を行ったがいずれも敗れており、遠征中勝利したのは唯一このスウェーデン戦のみであった。 オリンピック後に開戦した第二次世界大戦で、日本代表選手も兵役に駆り出された。同点ゴールを決めたFWの右近はブーゲンビル島で、逆転ゴールを決めたFWの松永はガダルカナル島でそれぞれ戦死している。FBの竹内悌三はシベリア抑留中に死去、またスウェーデン戦で控えメンバーだったFWの高橋豊二も海軍航空学校での訓練中に事故死した。 日本の1点目を挙げたFWの川本もシベリアに抑留されたが帰国後選手として復帰し、引退後は指導者の道へと進んだ。釜本邦茂ら後進の選手たちに影響を与えたほか、晩年は日本サッカー協会の理事などを務めた。FBの堀江は帰国後新聞記者を経て、経済学者として母校・早稲田大学で教鞭を振るうと同時に、同大ア式蹴球部で監督を務めた。HBの金容植は戦後建国された韓国に渡り、韓国代表選手として1952年までプレーした。引退後は指導者として国内チームの監督を歴任し、「韓国サッカーの父」と呼ばれた。
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