その後の日中関係と貿易
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1964年に病気退陣した池田首相の後を受けた佐藤栄作首相は、実兄である岸と同様に親米・親華路線をとった一面もあった。しかし、1971年に米中接近を象徴するニクソン・ショック(翌年にニクソン訪中を行うことを宣言)が起き、佐藤首相・福田赳夫外相は中共・台湾双方と国交を持つべく国際連合においてアルバニア決議に反対して「二重代表制決議案」と「重要問題決議案」を米国などと共同提案することになる。この時期中華民国の国際的孤立が高まり、中華民国との断交・日中国交正常化を期待する声が日本国内でも目立つようになった。佐藤首相もアルバニア決議の可決を受け、1972年1月の施政方針演説では「中国は一つであるという認識のもとに、今後中華人民共和国政府との関係の正常化のため、政府間の話し合いを始めることが急務である」として中国との国交正常化を目指す路線に修正した。 佐藤後継を巡る1972年(昭和47年)の自民党総裁選では、佐藤の腹心であった福田赳夫を除く3人の候補(田中角栄・大平正芳・三木武夫)はいずれも中華民国との断交・中共との国交正常化の推進派であり、日中国交正常化を条件に大平・三木の支持を得た田中が勝利した。同年7月7日に田中内閣が成立すると、早くも9月には田中首相・大平外相らが訪中。日中共同声明が出され、中華人民共和国の建国後初めて日本と中国との間に正式な国交が結ばれることとなった。と同時に、大平外相が日華平和条約の失効を宣言したことで中華民国との国交が断絶し、日中関係と日華関係が逆転。以後は日華間において国交のない貿易が続くこととなる。 1974年(昭和49年)1月5日には北京で日中貿易協定が締結。ここに正式な国交に基づく貿易体制が築かれた。以後、1978年から始まる改革開放路線を経て日中間の貿易額は拡大し続け、2006年には中華人民共和国(香港を除く)との輸出入総額がアメリカを抜き、日本の最大の貿易相手国となっている。
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