米中接近とは? わかりやすく解説

米中接近

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:14 UTC 版)

日中国交正常化」の記事における「米中接近」の解説

中華人民共和国1949年10月建国されてから、東西冷戦時代入ったが、1950年イギリスが、1964年フランス承認して国交樹立していた。折しも1950年代後半頃から中ソ対立激しくなり、一方で米ソ協調路線となり、フランスの独自外交アメリカベトナム戦争への介入中華人民共和国文化大革命など、それまで東西対立とは違って60年代後半国際情勢が複雑で多極化していた。1969年春に中ソ間で国境線を巡る武力衝突事件起きて中華人民共和国ソ連主な敵とする外交路線取り、また混乱していた国内文化大革命落ち着き始めてそれまで林彪らの文革派から周恩来実権回復していた頃から、積極的な外交展開するようになった1970年10月カナダ12月イタリア国交を結び、この頃からアメリカへの働きかけ水面下始まっていた。 1971年3月名古屋市開催され第31回世界卓球選手権文革後初め選手団送り当時アメリカ選手団大会直後中華人民共和国招待するピンポン外交展開されて後に、7月アメリカヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官当時。後に国務長官)がリチャード・ニクソン大統領の命を受けて北京秘かに訪問し中華人民共和国成立後初め米中政府間協議極秘行った。そして7月15日に、ニクソン大統領翌年中華人民共和国訪問することを突然発表して世界をあっと驚かせた(第1次ニクソン・ショック)。このニクソン大統領の中国訪問は翌1972年2月行われた。 この当時アメリカにとっては中華人民共和国パートナーとした新し東アジア秩序形成模索するもので、中華人民共和国対立するソ連のみならず中華人民共和国支援していた北ベトナムに対して揺さぶりをかけることで、膠着状態にあった北ベトナムとの和平交渉促進することも目的であった1965年から武力介入して泥沼化したベトナム戦争抱えて複雑な状況の中で米国としても主導権持って外交積極的に推し進めるためには、ソ連対立しつつ北ベトナム支援していた中華人民共和国承認することが必要であることをニクソン自身大統領になる前から考えていた。 また前年国際連合での中華人民共和国加盟めぐって賛成票が多数となり(米国重要事項案も可決され三分の二上の賛成票ではないので加盟実現しなかった)、この年秋の国連加盟確実視されていた。また大統領選挙公約したベトナム戦争からの名誉ある撤退進めるためにも北ベトナム支援する中華人民共和国との交渉必要なことであると認識していたことで、ニクソンの突然の中華人民共和国訪問実現した。 このニクソン訪中時に周恩来との数回会談の中で日米安保条約対中華人民共和国のものでなく、「対ソ連中心でかつ日本の軍事力を抑えて日本の軍事大国化を防ぐ目的のものであること」とをキッシンジャー説明して周恩来理解示した。このことは後に日中国交正常化障害1つ取り除いていたことになった

※この「米中接近」の解説は、「日中国交正常化」の解説の一部です。
「米中接近」を含む「日中国交正常化」の記事については、「日中国交正常化」の概要を参照ください。

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