佐藤政権での返り咲き
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1967年の第31回衆議院議員総選挙で復活当選した。10万票を超える圧倒的な得票でトップ当選を飾った。1967年11月の第2次佐藤第1次改造内閣で建設相に就任し、吉田内閣の農相以来、13年ぶりに閣僚に返り咲いた。 1968年11月の内閣改造で内閣官房長官に就任。当時66歳だった保利は「こんな年寄りではいけんよ」と固辞したが、佐藤は「一度くらい、一緒に苦労してくれてもいいだろ」と殺し文句を繰り出した。前任の木村俊夫が副長官に格下げになって保利を補佐する、「大官房長官」の体制がとられ、副総理格の扱いだった。保利は通常の行政事務はほとんど木村副長官に任せ、重要課題の処理に全力を挙げた。佐藤首相は、吹き荒れていた大学紛争を沈静化させ、安定した国内情勢を背景に沖縄返還の対米交渉に全力を挙げ、「70年安保」を無事に乗り切ることを目標としていた。そのために保利官房長官・田中幹事長・愛知揆一外相という布陣を敷いたのであった。保利は佐藤派の大番頭と呼ばれ、田中・福田赳夫とともに佐藤政権の三本柱をなした。 佐藤政権は大学紛争の沈静化のため特別立法の検討を進めていたが、坂田道太文相がまとめた文部省案に対して自民党内から「学内暴力を徹底的に取り締まる中身にすべきだ」との異論が出た。保利が調整に乗り出し、坂田文相や文部省幹部と話し合い、大学当局者の意見を聞き、ひそかに学生の代表とも会って彼らの声に耳を傾けた。後藤田正晴警察庁長官・秦野章警視総監とも協議を重ねて「多少生ぬるい内容であっても、大学当局の自主努力を促す文部省案で行こう」と決断し、党内の一部の反対を押し切って「大学運営臨時措置法案」(大学管理法)を国会に提出した。この法案に対して社会党・共産党が強く反対したため国会審議は難航を重ねたが、田中自民党幹事長が押し切って大学管理法は1969年8月3日に成立した。この直後から大学紛争は潮が引くように沈静化していった。 1969年11月14日、佐藤首相の訪米に合わせて首相の臨時首相代理に指名される。 1971年7月5日の内閣改造で、保利は官房長官から自民党幹事長に転じた。保利の使命は同年6月に調印された沖縄返還協定の国会承認と、佐藤の円満な退陣、福田へのバトンタッチであった。しかし、このころから佐藤政権は内外の逆風に翻弄されて思わぬ悪戦苦闘を強いられた。 第9回参議院議員通常選挙では、野党共闘が奏功して自民党の議席が予想外に落ち込み、与野党の議席差が縮まった。議会運営では、岸信介・佐藤栄作と「長州ご三家」といわれ、9年間議長として参議院に君臨した重宗雄三が佐藤内閣を支える重要な一角であったが、河野謙三が「重宗王国」に造反して野党の支持のもとで議長になった。保利幹事長は重宗・河野間の調整に乗り出し、木内四郎を新議長とすることで折り合いがついたが、重宗が不出馬会見で「河野が野党と結託して」と発言したことに河野が強く反発して保利の調整工作は不発に終わった。 1971年7月キッシンジャー米国務長官が中国を訪問し、ニクソン大統領の72年訪中が公表された。日本の頭越しの米中接近に衝撃を受けた。その1カ月後、ニクソン大統領は緊急ドル防衛策を発表し、変動相場制に移行した。日米の信頼関係は一層深まったと考えていた佐藤政権は2つのニクソン・ショックにうろたえた。特に米中接近は日本の世論を刺激し、日中国交回復を求める声が一段と大きくなった。中国の国連加盟問題で困難な対応を迫られた。米国提案の逆重要事項指定決議案と、複合二重代表制決議案の共同提案国になるかどうかをめぐって自民党の意見は割れた。 保利はひそかに日中関係打開のために重要な布石を打っていた。周恩来首相にあてた「保利書簡」である。訪中する美濃部亮吉東京都知事に託され、北京で届けられた。しかし、この書簡を読んで「まやかしであり、信用できない」と受け止めた周は書簡を返却し、不発に終わった。国交のない中共に向けた書簡は国内で波紋を呼び、それまで親台派と目されていた保利は山中貞則に詰め寄られることとなった。
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