佐藤敬忠の存在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 11:10 UTC 版)
日立村の誕生にあたっては、明治7年に記された「佐藤敬忠事蹟書上」や、大正後期にまとめられた町政移行時の史料が詳しい。なお、同史料は原本が消失しており、昭和32年に日立市が行った「日立市史編纂事業」の過程で行われた写本でのみ確認できる。 宮田村と滑川村が合併して誕生した日立村であるが、文字通り、合併元の村に関する名称(文字)は含まれていない。「日立」の由来については後述する徳川光圀由来説なども存在するが、現存する書物、史料、日立市の歴史編纂活動によって、佐藤敬忠の影響が大きいことが明らかになりつつある。 1863年(天保7年)、佐藤敬忠は、旧中里村(現在は日立市に編入合併)にあたる久慈郡中深萩村の會澤家の三男・敬忠として生まれた後に、宮田村の豪家である佐藤家の養子になり、佐藤敬忠となる。 敬忠は水戸藩主に仕え、藩内で起きた乱を鎮めるなど多大な功績をあげた。その結果、1868年(旧暦明治2年)からわずか4年間で、助川村から折笠村に至る7村の区長を命じられるに至る。その後、さらに掌握範囲を広げ、水木村から里川新田(旧里美村、現在は常陸太田市に編入)までの広大な範囲を治めた。里川新田については、江戸時代末期、旧里美村と周辺河川を含めた新田開発事業として藩をあげて進められた事業であり、当時の事情を鑑みると新規開発地域も任された意味は大きく、現在の日立市と旧里美村における敬忠の影響力は絶大なものであったと推測される。実際に1873年(明治6年)から始まる「地租改正」までの間に、7村における区長、34村の学区取締を任されていた。
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