米中接近と日中国交締結とは? わかりやすく解説

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米中接近と日中国交締結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:35 UTC 版)

毛沢東」の記事における「米中接近と日中国交締結」の解説

毛沢東中国訪問した外国指導者迎え入れることはあったものの、2度ソ連訪問除いて自らの外遊避けたことで当時国際社会では神秘的かつ閉鎖的な国家指導者の印象与えていたが、巧み周恩来外交手腕もあって1971年国際連合アルバニア決議可決され中華民国国連とその関連機関から追放させ、経済的に発展途上国ありながら軍事的に核保有国だけでなく、外交的に国連安保理常任理事国地位手に入れたことで加盟当初から事務総長の選出意にそぐわない候補に対して拒否権行使するなど列強と並ぶ強い影響力国際社会誇示するようになって中華人民共和国世界にとって無視できない存在となった毛沢東世界注目され最後の事件1972年2月18日北京において行われたアメリカ合衆国大統領ニクソンとの会談である。この日、すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態悪化していたにもかかわらず毛沢東西側諸国リーダーだったアメリカニクソン握手し同盟各国頭越し首脳会談による関係改善成し遂げたニクソン通訳から紹介され毛沢東は「我々の共通の旧友蔣介石大元帥はこれを認めたがらないでしょう」と歓迎した。これに先立つニクソン訪中予告全世界驚愕呼び起こし、金ドル交換停止とともにニクソン・ショックとも呼ばれたニクソンの後を継いで米大統領就任したジェラルド・フォードとも会見した。ただし、米中国交正式に樹立するのは毛沢東の死後1979年になってからである。 なお、この米中接近冷戦下ソ連牽制する必要があるアメリカと、同じく珍宝島事件ダマンスキー島事件)などでソ連との関係悪化していた中華人民共和国双方の思惑一致したものであった。「将来的に、資本主義国アメリカ衰退し社会主義体制によって発展するソ連こそが最大脅威となるであろう」と毛沢東予測していた。1973年毛沢東アメリカ国家安全保障問題担当大統領補佐官キッシンジャーアメリカ日本中華人民共和国・パキスタン・イラン・トルコ・ヨーロッパによるソ連対す合従連衡提案していた。 その後1972年高度経済成長遂げて西側諸国ではアメリカに次ぐ経済力有するになっていた日本の首相田中角栄ニクソン後を追うように中国訪問して首脳会談行い日中国交正常化を果たす。中華人民共和国中華民国二重承認認めないため、日本これまで国交結んでいた中華民国との国交断絶した毛沢東田中面会したのはわずかな時間であったが、毛沢東は単に中国訪問しただけで無く一気国交を結ぶまでに進めた田中決断力を「ニクソン上のもの」と評価していたといわれる

※この「米中接近と日中国交締結」の解説は、「毛沢東」の解説の一部です。
「米中接近と日中国交締結」を含む「毛沢東」の記事については、「毛沢東」の概要を参照ください。

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