米中接近と日中国交締結
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毛沢東は中国を訪問した外国の指導者を迎え入れることはあったものの、2度のソ連訪問を除いて自らの外遊は避けたことで当時の国際社会では神秘的かつ閉鎖的な国家指導者の印象を与えていたが、巧みな周恩来の外交手腕もあって1971年に国際連合でアルバニア決議が可決され、中華民国を国連とその関連機関から追放させ、経済的には発展途上国でありながら軍事的には核保有国だけでなく、外交的には国連安保理常任理事国の地位も手に入れたことで加盟当初から事務総長の選出で意にそぐわない候補に対して拒否権を行使するなど列強と並ぶ強い影響力を国際社会で誇示するようになって中華人民共和国は世界にとって無視できない存在となった。 毛沢東が世界に注目された最後の事件は1972年2月18日、北京において行われたアメリカ合衆国大統領ニクソンとの会談である。この日、すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態が悪化していたにもかかわらず、毛沢東は西側諸国のリーダーだったアメリカのニクソンと握手し、同盟各国の頭越しに首脳会談による関係改善を成し遂げた。ニクソンを通訳から紹介された毛沢東は「我々の共通の旧友、蔣介石大元帥はこれを認めたがらないでしょう」と歓迎した。これに先立つニクソンの訪中予告は全世界の驚愕を呼び起こし、金ドル交換停止とともにニクソン・ショックとも呼ばれた。ニクソンの後を継いで米大統領に就任したジェラルド・フォードとも会見した。ただし、米中が国交を正式に樹立するのは毛沢東の死後、1979年になってからである。 なお、この米中接近は冷戦下でソ連を牽制する必要があるアメリカと、同じく珍宝島事件(ダマンスキー島事件)などでソ連との関係が悪化していた中華人民共和国双方の思惑が一致したものであった。「将来的に、資本主義国のアメリカは衰退し、社会主義体制によって発展するソ連こそが最大の脅威となるであろう」と毛沢東は予測していた。1973年に毛沢東はアメリカの国家安全保障問題担当大統領補佐官キッシンジャーにアメリカ・日本・中華人民共和国・パキスタン・イラン・トルコ・ヨーロッパによるソ連に対する合従連衡を提案していた。 その後、1972年に高度経済成長を遂げて西側諸国ではアメリカに次ぐ経済力を有する国になっていた日本の首相田中角栄もニクソンの後を追うように中国を訪問して首脳会談を行い、日中国交正常化を果たす。中華人民共和国・中華民国も二重承認を認めないため、日本はこれまで国交を結んでいた中華民国との国交を断絶した。毛沢東が田中と面会したのはわずかな時間であったが、毛沢東は単に中国を訪問しただけで無く、一気に国交を結ぶまでに進めた田中の決断力を「ニクソン以上のもの」と評価していたといわれる。
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