国際共産主義運動の分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:30 UTC 版)
「プラハの春」の記事における「国際共産主義運動の分裂」の解説
共産党自身による社会主義体制の改革の試みが「社会主義の祖国」ソ連によって押しつぶされた事実は、わずかながらも残っていた「現存社会主義」に対する期待・希望を一掃することになった。その結果、国際共産主義運動は分裂状態に陥った。 フランスやイタリアの共産党などは、プロレタリア独裁を放棄し、議会制民主主義の枠内での社会主義理念の実現へと方針転換を図る、いわゆるユーロコミュニズムを掲げるようになった。 中国共産党はソ連のチェコスロバキア侵攻を「社会帝国主義」ないし「覇権主義」と厳しく非難し、1969年には中ソ国境紛争に発展して、中ソ対立は修復不可能な状態に達した。ソ連をより差し迫った脅威ととらえた中国は、この後、外交面では西側諸国との関係改善を模索することになる。ワルシャワ条約機構に加盟していたルーマニアのニコラエ・チャウシェスクはルーマニア軍の派遣を拒否してソ連のチェコ介入を公然と批判し、中国を訪問し、後のニクソン大統領の中国訪問を仲介して米中接近を支えた。こうした国際共産主義運動の動揺は、後述するように、冷戦構造の変容、すなわちデタントをもたらす下地を提供した。 一方、キューバのカストロは、ソ連軍のチェコ介入については非難しつつも、共産主義体制維持については支持し、キューバ危機以来のソ連・キューバ間の不信感は解除されることとなった。
※この「国際共産主義運動の分裂」の解説は、「プラハの春」の解説の一部です。
「国際共産主義運動の分裂」を含む「プラハの春」の記事については、「プラハの春」の概要を参照ください。
- 国際共産主義運動の分裂のページへのリンク