中華人民共和国訪問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 16:20 UTC 版)
「リチャード・ニクソン」の記事における「中華人民共和国訪問」の解説
1949年に中華人民共和国が建国された後、朝鮮戦争における米中の交戦と休戦を経て長年の間アメリカと対立関係にあったが、1971年7月に中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国との関係を正常化することで、中華人民共和国と対立を続けていたソ連を牽制すると同時に、アメリカ軍の南ベトナムからの早期撤退を公約としていたニクソンが、北ベトナムへの最大の軍事援助国であった中華人民共和国との国交を成立させることで北ベトナムも牽制し、北ベトナムとの秘密和平交渉を有利に進めることの一石二鳥を狙い、大統領補佐官であるキッシンジャーを極秘にパキスタンのイスラマバード経由で中華人民共和国に派遣した。 この訪問時にキッシンジャーは中華人民共和国首相の周恩来と会談して、正式に中華人民共和国訪問の招待を受けたことからニクソンはテレビで「来年5月までに中華人民共和国を訪問する」と声明を発表し、副大統領時代に印象付けた猛烈な反共主義者で親華派(親台派)のイメージをニクソンに抱いていた世界を驚愕させた。「ニクソンが中国に行く(英語版)」という政治用語も生まれた。 また1971年12月に起きた第三次印パ戦争ではニクソン訪中の仲介国でもあったパキスタンを中国とともに支援した。 そして翌年1972年2月21日にエアフォース・ワンで北京空港に到着し、周恩来首相が出迎え握手を交わし、中国共産党主席の毛沢東と中南海で会談し、ニクソンと対面した毛沢東は「我々の共通の旧友、蔣介石大元帥はこれを認めたがらないでしょう」と歓迎した。また周恩来首相との数回にわたる会談の後、中華人民共和国との関係は改善してやがて国交樹立へと繋がり、その後の外交で大きな主導権を獲得することとなった。 訪中から3か月後にニクソンが行った北ベトナムへの北爆再開と港湾封鎖も中華人民共和国の了解を得たともされている。 なお、アメリカ合衆国と中華人民共和国の間の国交樹立は、カーター政権下の1979年1月になってようやく実現することとなる。ニクソン訪中時に国交樹立まで至らなかったのは長年中華人民共和国との対立を続けている中華民国との関係であった。1979年に米中間の正式な国交樹立時における中華人民共和国からの強硬な申し入れを受けて、中華民国とは国交断絶せざるを得なくなり米台相互防衛条約は失効された。しかし両国内での強い反発があり、議会で国内法として「台湾関係法」が成立して、アメリカ合衆国は中華人民共和国との正式な国交樹立以後も、国交断絶した中華民国への経済的、軍事的、外交的な支援を含む密接な関係を続けている。 詳細は「ニクソン大統領の中国訪問」を参照
※この「中華人民共和国訪問」の解説は、「リチャード・ニクソン」の解説の一部です。
「中華人民共和国訪問」を含む「リチャード・ニクソン」の記事については、「リチャード・ニクソン」の概要を参照ください。
- 中華人民共和国訪問のページへのリンク