第36代アメリカ合衆国副大統領とは? わかりやすく解説

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第36代アメリカ合衆国副大統領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 16:20 UTC 版)

リチャード・ニクソン」の記事における「第36代アメリカ合衆国副大統領」の解説

このような逆風にあったものの、その後アイゼンハワーニクソンコンビ大統領選挙本選挙一般投票55 %、48州のうち39州を制して民主党アドレー・スティーブンソンジョン・スパークマンコンビ破りニクソン1953年1月20日アイゼンハワー政権副大統領となった副大統領就任したニクソンは初の外国への公式訪問として、アメリカ隣接し関係の深いキューバベネズエラはじめとする南アメリカ諸国訪問したベネズエラ首都カラカス訪問した際に反米デモ起こり暴徒化して地元警察でさえコントロールできなくなった状況ニクソンデモ隊対す沈着冷静かつ毅然とした態度国際的な賞賛受けた。 またその後アフリカ諸国への訪問アメリカの副大統領として史上初のアフリカ大陸への訪問であった)をはじめとする諸外国への外遊積極的に行った同年10月5日から12月14日にかけて日本中華民国韓国などの北東アジアからフィリピン・インドネシア・ラオス・カンボジアなどの東南アジア、インド・パキスタン・イランなどの西アジアオーストラリア・ニュージーランドなどのオセアニア諸国までを一気に回るなど、積極的に外遊行った。この時に11月15日戦後初の国賓として来日し日米協会歓迎会の席で「アメリカ日本新憲法非武装化盛り込んだのは誤りであった」と述べている。 また、これより前に1954年4月16日全米新聞編集者協会年次大会で「万一インドシナ共産主義者の手落ちればアジア失われるアメリカ赤色中国(レッドチャイナ)や朝鮮教訓忘れてならない」と述べた当時の有力政治週刊誌チャイナ・ロビー活動に熱心な政治家一人としてニクソンをあげて、1950年の上院議選挙の際に中華民国総統蔣介石から資金援助があったという噂を書いている。 1954年ディエンビエンフーフランス軍敗北した際には「フランス撤退すればアメリカ肩代わりをする」としてインドシナ出兵論を唱えた。同じ年に中華人民共和国中華民国金門馬祖両島爆撃をした時は、中国人民解放軍への軍事的対抗主張した。なおベトナムからのアメリカ軍撤退中華人民共和国訪問を自ら実現するのはこれからほぼ20年後のことである。そしてこの当時中華人民共和国に結びつこうとしたインド牽制して対立するパキスタン軍事援助与えた インド訪問した時にネール首相会談したが、ネールニクソンを「原則のない若者」として侮蔑言葉呼び捨てた。下院議員時代に「赤狩りニクソン」のニックネーム呼ばれ副大統領になってもその反共主義は変わらなかった。そしてやがて東西対立がまだ厳しい中でソ連公式訪問してフルシチョフ首相やりあうこととなった

※この「第36代アメリカ合衆国副大統領」の解説は、「リチャード・ニクソン」の解説の一部です。
「第36代アメリカ合衆国副大統領」を含む「リチャード・ニクソン」の記事については、「リチャード・ニクソン」の概要を参照ください。

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