欧州訪問
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1971年(昭和46年)には9月27日から10月14日にかけて17日間、再度イギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7か国を香淳皇后同伴で訪問した。これが皇室史上、歴代天皇で(即位後に)初めて日本国外を訪問した出来事であった。また、香淳皇后にとっては人生初の海外訪問となった。お召し艦を使用した前回(皇太子時代の欧州訪問)と違い、日本のフラッグキャリアである日本航空のダグラス DC-8の特別機を使用した。 海外訪問は皇后の念願であり、高松宮妃喜久子が1963年頃に吉田茂元首相を介して佐藤栄作首相(当時)に、昭和天皇・香淳皇后の外遊の話を伝えた。またベルギー訪問に際しては、喜久子妃が同国王弟のリエージュ公アルベール王子(当時)に働きかけて実現させた(詳細は当該項目を参照)。 大戦中に剥奪された昭和天皇のガーター勲章について、訪問に先立つ4月7日、イギリス王室は「剥奪された日本国天皇の名誉を全て回復させる」という宣言を発し、天皇は同騎士団に復帰することとなった(詳細は当該項目を参照)。 訪問先には数えられていないが、この時、経由地として1971年(昭和46年)9月27日(現地時間:9月26日)に米国アラスカ州のアンカレッジに立ち寄っており、エルメンドルフ空軍基地に到着した飛行機から降りたのが、歴代天皇で初めて外国の地を踏んだ瞬間となった。そこで、ワシントンD.C.のホワイトハウスから訪れたアメリカ合衆国大統領のリチャード・ニクソンとパット同夫人(ファーストレディー)の歓迎を受けてニクソン大統領と昭和天皇がそれぞれ歓迎のスピーチと感謝の辞を述べた後、同基地内のアラスカ地区軍司令官邸でニクソン大統領と会談、実質的にアメリカ合衆国も訪問した。 なお、この昭和天皇とニクソン大統領との会談は当初の予定になく、欧州歴訪のための給油と昭和天皇の休息のためにアメリカ合衆国に立ち寄るだけの予定であったのだが、当初は1時間の予定だった滞在を2時間に延長することも合わせてアメリカ政府側が要望し急遽、会談が決定した。8月5日の極秘公電によると、知日派で元駐日大使のウラル・アレクシス・ジョンソン政治担当国務次官は牛場信彦駐米大使に対し、会見が実現すれば「日米関係のために何物にも勝る有益なことと考える」と強調した。牛場大使も会談は「時宜に適したもの」と日本政府に報告した。米国政府側は昭和天皇と大統領の単独会見を30分、福田赳夫外務大臣(当時:第3次佐藤改造内閣、佐藤栄作首相)、ウィリアム・P・ロジャーズ国務長官を交えた会談を30分とする予定を提案した。しかし、日本政府側は両外相を同席させる慣行は「政治会談の場合のこと」として拒否した。米側が会談発表の際に準備した「意義を強調するコメント」にも、「絶対に政治色を帯びさせないこと」と注文を付けた。ところが、米側は単独会見10分、外相同席会談20分の予定を再提案した。福田外相は同年9月20日の牛場駐米大使宛ての公電で米側の提案を「日本人には天皇陛下を政治会談に引込まんとしたとの印象を与える」「我が方としては迷惑千万である。先方の認識を是正されたい」などと批判した。これは当時、「天皇陛下との会談を、ニクソン大統領の中華人民共和国訪問で悪化した日米関係を修復するのに利用しようとしているのではないか」と福田外相が懸念し、象徴天皇制の前提が揺らぐ可能性を憂慮したためである。福田公電の1週間後に実現したアンカレッジ滞在では「天皇、皇后、ニクソン夫妻」4人による写真撮影と歓談が15分、昭和天皇と大統領の単独会見が25分、両外相同席の会談が10分とすることで決着した。会談の際の昭和天皇の発言内容を記録した外交文書は黒塗りが施され未公開となった。結果として会談は実現し、史上初めての日本国天皇とアメリカ合衆国大統領による会談が行われた。 当初の訪問地であり、皇室・王室同士の交流も深いデンマークやベルギーでは国を挙げて温かく歓迎された。休養をかねての非公式訪問となったフランスでは、当時母国イギリスを追われ事実上同国で亡命生活をしていた旧知のウィンザー公(元英国国王エドワード8世)と隠棲先で50年ぶりに再会して歓談。ウィンザー公と肩を組んでカメラにおさまった姿が公側近により目撃されている。 しかし、第二次世界大戦当時に植民地支配していたビルマやシンガポール、インドネシアなどにおける戦いにおいて日本軍に敗退し、捕虜となった退役軍人が多いイギリスとオランダ(両国とも日本と同様に立憲君主国)では抗議運動を受けることもあった。特に日本軍に敗退したことをきっかけにアジアにおける植民地を完全に失い国力が大きく低下したオランダにおいては、この昭和天皇を恨む退役軍人を中心とした右翼勢力から生卵や魔法瓶を投げつけられ、同行した香淳皇后が憔悴したほど抗議はひどいものであった。 こうした抗議や反発について、昭和天皇は帰国後11月12日の記者会見で「事前に報告を受けており、驚かなかった」とした上で、各国からの「歓迎は無視できないと思います」とした。また、3年後に金婚を迎えたことに伴う記者会見で、香淳皇后とともに、「夫婦生活50年で一番楽しかった思い出」として、この訪欧を挙げた。
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