その後の映画製作とは? わかりやすく解説

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その後の映画製作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 08:23 UTC 版)

ジョルジュ・メリエス」の記事における「その後の映画製作」の解説

1907年メリエス舞台で新たなイリュージョン3つ考案しロベール=ウーダン劇場披露した映画19作品製作しており、ジュール・ベルヌ作品パロディ海底2万マイル英語版)』、『ハムレット』短編化したものなどがある。ジャン・ミトリやジョルジュ・サドゥールといった映画評論家1907年からメリエス凋落始まった指摘し、「一方でそれまでのものを繰り返し他方では他者新しいものの模倣になっていった」と評している。1908年トーマス・エジソンアメリカヨーロッパ映画業界制御する手段としてモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー (MPPC) を結成。これにはメリエススター・フィルム含め多く映画製作会社参加したスター・フィルム毎週1000フィートフィルムMPPC供給することを義務付けられ、その義務を果たすためにメリエスはその年に68作品製作したガストン・メリエスシカゴ新たなスタジオliès Manufacturing Company作り、弟がエジソンへの義務を果たすのを助けようとした。しかし1908年中はガストンは全く映画完成させていないこの年メリエス野心La Civilisation à travers les âges を製作。これは人類の歴史カインとアベルから1907年ハーグ陸戦条約まで悲観的に描いたもので、興行的には当たらなかったが、メリエス生涯最高傑作として誇り思っていた。 1909年に入ると映画製作止め2月にはパリ開催されInternational Filmmakers Congress第1回会合議長務めた出席者多くメリエス含めエジソン独占快く思っておらず、なんとかその状況覆したいと考えていた。この会議では、今後映画販売するではなく4カ月契約リースすること、リース先は会員に限ること、フィルム規格定めることで合意した。しかしメリエスにとっては2つ目の合意問題で、メリエス作品上映しているのは映画館よりも見世物小屋音楽ホールなどが多く、彼らは会員になる気はなかった。メリエスはある雑誌インタビューに「私は企業ではなく独立したプロデューサーだ」と応えている。1909年秋から映画製作再開。同じころガストンは Méliès Manufacturing Companyニュージャージー州フォートリー移転し、その年は3本映画製作した1910年ガストンテキサス州サンアントニオStar Films Ranch という新たなスタジオ設け、そこで西部劇の製作を開始1911年にはスター・フィルムアメリカ支社American Wildwest Productions に改称しカリフォルニア州南部新たなスタジオ開設したガストン1910年から1912年にかけて130上の映画製作しMPPCへのスター・フィルム義務大半満たした。同じ1910年から1912年にかけてジョルジュ・メリエス製作したのはわずか20作品である。 1910年には14作品製作しLes Illusions fantaisistes では舞台上のマジック扱っている。ロベール=ウーダン劇場で過ごすことが多くなり、Spiritualist Phenomena という新たなレビュー作った同年スター・フィルムゴーモン映画配給任せ契約結んだ。また同年秋にはシャルル・パテ(英語版)と取引しそのことメリエス映画製作者として経歴終止符を打つ原因となった。その取引とは、パテメリエス巨額映画製作費を与え代わりに製作した映画パテ配給し編集権パテ側が持つというものだったまた、取引一環としてパテメリエス自宅モントルイユスタジオ抵当権設定したメリエスはさっそく映画製作とりかかり1911年には『ミュンヒハウゼン男爵幻覚英語版)』や Le Vitrail diabolique など7作品を製作。ほんの10年前には大人気だったおとぎ話的な映画だが、これらの作品興行的に失敗し赤字となった1912年野心的作品作り続けており、特に『極地征服英語版)』が有名である。当時1909年ロバート・ピアリー北極点到達し1911年ロアール・アムンセン南極点到達していた。それを踏まえた映画だが、霜の巨人12人がかりで操作した)などのファンタジー要素含んでいた。またジュール・ベルヌの『ハテラス船長の冒険』の要素含んでおり、『月世界旅行』、『不可能を通る旅』と合わせて三部作呼ばれることもある。『極地征服』も興行的に失敗しパテメリエス作品編集権行使することを決めたメリエス最後おとぎ話作品となったシンデレラ』は、新技術のディープフォーカスカメラを使いロケ撮影した54分の作品だった。パテメリエス長年ライバルだっフェルディナン・ゼッカ(フランス語版)に編集任せ33分に短縮したが、これも興行的に失敗終わったその後の作品同様の結果終り1912年末にはメリエスパテとの契約破棄することにした。一方ガストン1912年夏、家族撮影スタッフ20人を連れてタヒチ島にいた。そして1913年でかけて南太平洋アジア撮影して周りニューヨークにいる息子撮影したフィルム送っていた。しかし送られてきたフィルムダメージ受けていて使えないことが多くガストンMPPCへのスター・フィルム義務満たせなくなった撮影旅行から戻ったガストン5万ドル損失計上することになり、スター・フィルムアメリカ支社売却せざるを得なくなったガストンヨーロッパ戻り1915年亡くなったガストンジョルジュ顔を合わせることはなかった。 1913年パテとの契約破棄したが、同時にそれまで受けていた巨額の製作費を返済しなければならなくなった。しかし1914年第一次世界大戦始まって支払猶予令が出たため、パテメリエス自宅モントルイユスタジオ差し押さえできなくなったいずれにしてもメリエス破産し映画製作続けられなくなった回想録メリエスは、賃貸システム馴染めなかった点、兄ガストン財政面失敗した点、第一次世界大戦恐怖などを映画製作辞めた主な原因としている。同時に1913年5月に妻ウジェニー・ジェナンが亡くなったそのとき息子アンドレ12歳だった。戦争によりロベール=ウーダン劇場閉鎖されメリエス2人の子連れて数年パリ離れた1917年フランス陸軍モントルイユスタジオ建物傷痍軍人のための病院として使用メリエスモントルイユ2つ目の舞台劇場とし、1923年までそこで24上のショーレビュー催した。また戦時中フランス陸軍フィルム含まれるセルロイドと銀を再利用するため、メリエス映画原版400本以上を没収している。陸軍軍靴かかと部分などにメリエスフィルム使った1923年オスマン通りという新たな大通り建設するため、ロベール=ウーダン劇場取り壊された。同年パテはついにスター・フィルムモントルイユスタジオ獲得。やけになったメリエスは、モントルイユスタジオ保管されていた全てのネガセット衣装燃やしてしまった。そのため、多く作品現存しないという状態になった。それでも200上のメリエス作品現存している。

※この「その後の映画製作」の解説は、「ジョルジュ・メリエス」の解説の一部です。
「その後の映画製作」を含む「ジョルジュ・メリエス」の記事については、「ジョルジュ・メリエス」の概要を参照ください。

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