その後の映画製作
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「ジョルジュ・メリエス」の記事における「その後の映画製作」の解説
1907年、メリエスは舞台での新たなイリュージョンを3つ考案し、ロベール=ウーダン劇場で披露した。映画は19作品を製作しており、ジュール・ベルヌの作品のパロディ『海底2万マイル(英語版)』、『ハムレット』を短編化したものなどがある。ジャン・ミトリやジョルジュ・サドゥールといった映画評論家は1907年からメリエスの凋落が始まったと指摘し、「一方ではそれまでのものを繰り返し、他方では他者の新しいものの模倣になっていった」と評している。1908年、トーマス・エジソンはアメリカとヨーロッパの映画業界を制御する手段としてモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー (MPPC) を結成。これにはメリエスのスター・フィルムも含め多くの映画製作会社が参加した。スター・フィルムは毎週1000フィートのフィルムをMPPCに供給することを義務付けられ、その義務を果たすためにメリエスはその年に68作品を製作した。ガストン・メリエスはシカゴに新たなスタジオ Méliès Manufacturing Company を作り、弟がエジソンへの義務を果たすのを助けようとした。しかし1908年中はガストンは全く映画を完成させていない。この年メリエスは野心作 La Civilisation à travers les âges を製作。これは人類の歴史をカインとアベルから1907年のハーグ陸戦条約まで悲観的に描いたもので、興行的には当たらなかったが、メリエスは生涯の最高傑作として誇りに思っていた。 1909年に入ると映画製作を止め、2月にはパリで開催された International Filmmakers Congress の第1回会合の議長を務めた。出席者の多くはメリエスも含めエジソンの独占を快く思っておらず、なんとかその状況を覆したいと考えていた。この会議では、今後は映画を販売するのではなく4カ月の契約でリースすること、リース先は会員に限ること、フィルムの規格を定めることで合意した。しかしメリエスにとっては2つ目の合意が問題で、メリエスの作品を上映しているのは映画館よりも見世物小屋や音楽ホールなどが多く、彼らは会員になる気はなかった。メリエスはある雑誌のインタビューに「私は企業ではなく、独立したプロデューサーだ」と応えている。1909年秋から映画製作を再開。同じころガストンは Méliès Manufacturing Company をニュージャージー州フォートリーに移転し、その年は3本の映画を製作した。1910年、ガストンはテキサス州サンアントニオに Star Films Ranch という新たなスタジオを設け、そこで西部劇の製作を開始。1911年にはスター・フィルムのアメリカ支社を American Wildwest Productions に改称し、カリフォルニア州南部に新たなスタジオを開設した。ガストンは1910年から1912年にかけて130以上の映画を製作し、MPPCへのスター・フィルムの義務の大半を満たした。同じ1910年から1912年にかけてジョルジュ・メリエスが製作したのはわずか20作品である。 1910年には14作品を製作し、Les Illusions fantaisistes では舞台上のマジックを扱っている。ロベール=ウーダン劇場で過ごすことが多くなり、Spiritualist Phenomena という新たなレビューを作った。同年にスター・フィルムはゴーモンに映画配給を任せる契約を結んだ。また同年秋にはシャルル・パテ(英語版)と取引し、そのことがメリエスの映画製作者としての経歴に終止符を打つ原因となった。その取引とは、パテがメリエスに巨額の映画製作費を与える代わりに、製作した映画はパテが配給し、編集権もパテ側が持つというものだった。また、取引の一環としてパテはメリエスの自宅とモントルイユのスタジオに抵当権を設定した。メリエスはさっそく映画製作にとりかかり、1911年には『ミュンヒハウゼン男爵の幻覚(英語版)』や Le Vitrail diabolique など7作品を製作。ほんの10年前には大人気だったおとぎ話的な映画だが、これらの作品は興行的には失敗し、赤字となった。 1912年も野心的作品を作り続けており、特に『極地征服(英語版)』が有名である。当時、1909年にロバート・ピアリーが北極点に到達し、1911年にロアール・アムンセンが南極点に到達していた。それを踏まえた映画だが、霜の巨人(12人がかりで操作した)などのファンタジー的要素も含んでいた。またジュール・ベルヌの『ハテラス船長の冒険』の要素も含んでおり、『月世界旅行』、『不可能を通る旅』と合わせて三部作と呼ばれることもある。『極地征服』も興行的には失敗し、パテはメリエス作品の編集権を行使することを決めた。メリエス最後のおとぎ話的作品となった『シンデレラ』は、新技術のディープフォーカスカメラを使いロケ撮影した54分の作品だった。パテはメリエスの長年のライバルだっフェルディナン・ゼッカ(フランス語版)に編集を任せ、33分に短縮したが、これも興行的には失敗に終わった。その後の作品も同様の結果に終り、1912年末にはメリエスはパテとの契約を破棄することにした。一方ガストンは1912年夏、家族や撮影スタッフ20人を連れてタヒチ島にいた。そして1913年までかけて南太平洋とアジアを撮影して周り、ニューヨークにいる息子に撮影したフィルムを送っていた。しかし送られてきたフィルムはダメージを受けていて使えないことが多く、ガストンはMPPCへのスター・フィルムの義務を満たせなくなった。撮影旅行から戻ったガストンは5万ドルの損失を計上することになり、スター・フィルムのアメリカ支社を売却せざるを得なくなった。ガストンはヨーロッパに戻り、1915年に亡くなった。ガストンとジョルジュが顔を合わせることはなかった。 1913年、パテとの契約を破棄したが、同時にそれまで受けていた巨額の製作費を返済しなければならなくなった。しかし1914年に第一次世界大戦が始まって支払猶予令が出たため、パテはメリエスの自宅とモントルイユのスタジオを差し押さえできなくなった。いずれにしてもメリエスは破産し、映画製作を続けられなくなった。回想録でメリエスは、賃貸システムに馴染めなかった点、兄ガストンが財政面で失敗した点、第一次世界大戦の恐怖などを映画製作を辞めた主な原因としている。同時に1913年5月に妻ウジェニー・ジェナンが亡くなった。そのとき息子アンドレは12歳だった。戦争によりロベール=ウーダン劇場が閉鎖され、メリエスは2人の子を連れて数年間パリを離れた。1917年、フランス陸軍はモントルイユのスタジオの建物を傷痍軍人のための病院として使用。メリエスはモントルイユの2つ目の舞台を劇場とし、1923年までそこで24以上のショーやレビューを催した。また戦時中、フランス陸軍はフィルムに含まれるセルロイドと銀を再利用するため、メリエスの映画の原版400本以上を没収している。陸軍は軍靴のかかと部分などにメリエスのフィルムを使った。1923年、オスマン通りという新たな大通りを建設するため、ロベール=ウーダン劇場が取り壊された。同年、パテはついにスター・フィルムとモントルイユのスタジオを獲得。やけになったメリエスは、モントルイユのスタジオに保管されていた全てのネガやセットや衣装を燃やしてしまった。そのため、多くの作品が現存しないという状態になった。それでも200以上のメリエス作品が現存している。
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