第1回会合
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「ラ米・カリブ首脳会議」の記事における「第1回会合」の解説
2008年12月16日から17日までブラジルバイーア州サルヴァドールに33カ国の代表(親米的とされるコロンビアとペルーの2カ国以外の31カ国は国家元首)が集まった。米国の支配から自立した平和の地域統合をめざす「サルバドル宣言」が採択された。
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第1回会合
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「ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議」の記事における「第1回会合」の解説
1941年4月17日にユーゴスラビア王国軍が降伏した後、同国はナチス・ドイツ、イタリア王国、ブルガリア王国、ハンガリー王国、そしてファシスト勢力の傀儡国家であるクロアチア独立国、アルバニア王国、セルビア救国政府によって分割された。ファシスト勢力による占領に反対する人々はレジスタンス運動を立ち上げ、非合法とされながら抵抗運動を続けたユーゴスラビア共産党は次第に多くの人々から支持を得るようになり、ユーゴスラビアにおけるレジスタンス運動の主軸を担うようになっていった。共産党は、民族の別を超えてユーゴスラビア全域から参加者や支持を集めており、ひとつのユーゴスラビア、ひとつのユーゴスラビア人を志向していた。 1942年11月26日、ユーゴスラビア・パルチザンの指導者らは、運動に政治的正当性を持たせることを目的とし、ボスニア・ヘルツェゴビナ北西部のビハチにて第1回の会合を招集した。パルチザンの指導者ヨシップ・ブロズ・ティトーの下、共産党員も非共産党員も含むユーゴスラビアのパルチザンの代表者らが集い、以下のことを支持すると宣言した: 民主主義 少数民族の権利擁護 私有財産の不可侵 さまざまな集団による個別の経済活動の自由 1943年1月、ドイツ軍は、パルチザン運動の指導部(ユーゴスラビア共産党中央委員会)とパルチザンの病院を破壊しユーゴスラビアにおける支配地域を拡大することを目的として、4回目となる大規模な反パルチザン攻勢をはじめた。数で敵に劣るパルチザンは、チェトニックやウスタシャ、ドイツ国防軍やイタリア王国軍との戦いを続け、ネレトヴァの戦いで敵の追跡を振り切るまで退却を強いられた。戦略的退却や人的・物的損失にもかかわらず、共産党中央委員会は無事であり、病院の安全も守られ、パルチザンは反ファシスト闘争を続けることができた。ファシスト勢力の主要な戦略目標は失敗に終わった。 5月には、ドイツ、イタリア、ブルガリア、クロアチアの部隊が、ボスニア南東部のスティエスカ川(Sutjeska)近くで5回目の対パルチザン集中攻撃(スティエスカの戦いに及んだ。再び兵力も劣勢で不利な条件下に置かれたパルチザンは、ここでも危機を脱することができた。しかし、依然としてパルチザンは劣勢を覆すことはできず、ユーゴスラビア解放のための反転攻勢に出ることは不可能な情勢であった。9月に入り、イタリアが降伏したことによって、パルチザンはイタリア軍から大量の武器を鹵獲し、また沿岸部の支配権を手に入れ、連合国からイタリア経由で支援物資を受け取ることができた。
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