第1回全国自動車競走大会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:00 UTC 版)
「多摩川スピードウェイ」の記事における「第1回全国自動車競走大会」の解説
1936年6月7日には、日本自動車競走倶楽部をオーガナイザーとして、日本初の本格的な自動車レースとなった第1回全国自動車競走大会が開催された。開会式には大日本帝国陸軍の将官が列席し、多摩川沿いという、都心から遠く離れた僻地での開催にもかかわらず1万人以上の観客を集めるなど大きな注目を集めた。 本大会の運営には、日産自動車の従業員であった片山豊が携わり、宣伝や広報を担当した。 当時横浜市にある工場で生産されていたフォードや、三井高公男爵が輸入したブガッティやベントレー、インヴェィクタやハップモビルなどの様々な外国車のみならず、カーチスの航空機エンジンを搭載した改造車、日産自動車などの日本の大手自動車会社もワークス体制を組んで参戦した。 このレースには、後に本田技研工業を創設する本田宗一郎も自製の「浜松号」(エントラント名は「ハママツ」)で参戦したが、レース中の他車との接触事故によりマシンが横転しリタイアし、マシンから放り出された本田も骨折や視力低下を招くなどの重傷を負っている。 国産自動車部門で優勝したのは当時三井物産の傘下にあったオオタ自動車工業が手作業で組み上げたレース専用マシンの「オオタ号」であった。なお、当日、スタンドからレースを観戦していた日産自動車の鮎川義介社長は敗北に激怒、社員に号令をかけ3ヶ月後の第2回大会に雪辱を期した。
※この「第1回全国自動車競走大会」の解説は、「多摩川スピードウェイ」の解説の一部です。
「第1回全国自動車競走大会」を含む「多摩川スピードウェイ」の記事については、「多摩川スピードウェイ」の概要を参照ください。
- 第1回全国自動車競走大会のページへのリンク