オオタ自動車工業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/14 05:01 UTC 版)
オオタ自動車工業(オオタじどうしゃこうぎょう)は、1957年(昭和32年)に日本内燃機と合併するまで存在していた日本の自動車メーカーである。
注釈
- ^ 4台のうち2台は島津楢蔵、他は岸一太のエンジンだった。このときの優勝は島津の1台。
- ^ 1950年代以前の自動車エンジンは、エンジン材質自体の品質水準やシリンダー内の表面特殊加工の未普及、道路未整備による吸気の砂塵吸い込みなどで、シリンダーの磨耗が激しかった。このため磨耗して圧縮効率が低下したエンジンは、シリンダー内部を研削拡大して筒状の金属ライナーを打ち込み、その内側を更に研削して排気量再生する「ボーリング作業」が必須だった。これを想定すると、エンジンのシリンダー回りにある程度余裕を持たせ、ボーリング作業を施しても排気量が750ccを超過しないライナーを打ち込めるマージンを持たせる必要があったことによる。戦前型ダットサンエンジンが722ccという半端な排気量設定だったのも同じ理由である。
- ^ 4気筒サイドバルブ・2ベアリングという基本スペックは類似したが、ダットサン7型がメインベアリングに当時は耐久面にリスクのあったボールベアリングを用いていたのに対し、オオタN-7型は堅実にメタルベアリングを用いており、実用上の信頼性で勝っていた。
- ^ なお、この時代の太田工場はまだ法人化されておらず、太田祐雄の個人事業で、1933年-1934年のカタログ複数を比較しても組織名称は「太田工場」「太田自動車製作所」の名称が混在していた。当時の個人事業者で事業所の商号が一定しない事例は珍しくなく、「オオタ(Ohta)」という基本ブランド名も存在したため、大きな問題にはならなかったと思われる。
- ^ 五十嵐平達は自著で1951年頃のオオタPA-2セダンを用いたタクシーの写真を示し「この頃のオオタは質が落ちて、故障が多いと言われた国産車の悪い方の代表格であり、遂にはタクシー業界からも見捨てられる運命にあった。大型化して強化されたトラックの方は売れていたのだが」と言及している[1]。
- ^ 富士重工業でスバル・360の開発を指揮した百瀬晋六に対する1995年10月の自動車技術会インタビューで、百瀬自身が、オオタ出身の国枝晴伸(のち富士重工業で資材部長を務めた)らの名を挙げ、自動車技術に通達したオオタ系技術者らの寄与・功績を語っている[2]。
- ^ 「コンサル」のスタイリングは、当時既にトヨタ自動車工業が荒川鈑金工業(のちのアラコ)にボディ架装させた1951年の「トヨペットSF」で先行して「剽窃」していた(トヨペットの場合はグリルまで真似ていた)。
出典
- ^ 五十嵐『写真が語る自動車の戦後』ネコ・パブリッシング 1996年 p254
- ^ 日本自動車工業会 百瀬晋六インタヴュー
- 1 オオタ自動車工業とは
- 2 オオタ自動車工業の概要
- 3 参考文献
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