ユーゴスラビア・パルチザン
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「パルチザン (軍事)」の記事における「ユーゴスラビア・パルチザン」の解説
詳細は「パルチザン (ユーゴスラビア)」を参照 パルチザンあるいは国民解放軍、(正式には国民解放軍とユーゴスラビア・パルチザン分遣隊)はヨーロッパの、反ナチスの最も効果的なレジスタンス運動であった。第二次世界大戦中、ユーゴスラビア共産党が主導したもので、その司令塔は、最高指揮官ヨシップ・ブロズ・チトーであった。共産主義によるパルチザンは、ユーゴスラビア人民解放戦争においてユーゴスラビアの中心的な部隊であった。 1943年の半ばまでには、ドイツやその同盟国へのパルチザンの抵抗は、単なる厄介ごとに過ぎなかった規模から、全般的な状況における主要な要素の次元にまで成長した。占領下のヨーロッパの多くでは、敵はパルチザンの手による損失を被り、不快な状況下にあった。ユーゴスラビア以上に損失が発生した地はなかったであろう。 —バジル・ダビットソン(英語版) 1944年末ごろにはパルチザン部隊の総数は、男女合わせて65万人にも上り、4個軍と52個師団を編成し通常戦(英語版)に参加した。1945年の4月には、パルチザンの人数は80万人以上となった。 終戦直前の1945年の3月、すべてのパルチザンはユーゴスラビアの正規軍に再編され、ユーゴスラビア軍と改名された。その名前は1951年まで続き、改名された後ユーゴスラビア人民軍となった。 詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」を参照 第二次世界大戦後のユーゴスラビアは、第二次世界大戦中に自国の軍事力を主力として解放されたヨーロッパ国家の一つであった。また、ユーゴスラビアはベオグラード攻撃(英語版)中にソビエト連邦から多くの支援を受けており、バルカン航空軍(英語版)からも1944年半ばから相当な支援を受けていたが、1944年まではほぼイギリスから限定的な支援を受けているだけだった。終戦時には他国の軍隊は全て撤収していた。結果の一部として、ユーゴスラビアは冷戦の始まりの際、両陣営の間にいることとなった。
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