生い立ちと革命家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/17 04:40 UTC 版)
「ミロヴァン・ジラス」の記事における「生い立ちと革命家」の解説
モンテネグロ王国モイコヴァツ近くにあるポドビシュチェ村で誕生、1932年にベオグラード大学の学生だった頃にユーゴスラビア共産党に入党した。1933年から1936年まで政治犯として収監されている。1938年に共産党中央委員会に選出され、1940年に政治局の一員に成った。 1941年4月、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア、その同盟国はユーゴスラビア王国軍を破り、そしてユーゴスラビア王国を解体した、ジラスはユーゴスラビア・パルチザンレジスタンスの結成にあたってはヨシップ・ブロズ・ティトーを手助けし、そしてまた戦争中はゲリラの司令官であった。 6月22日、ドイツがソビエト連邦へと進撃を開始 (バルバロッサ作戦)したあと、ユーゴスラビア共産党 (KPJ) の中央委員会は情勢から武装闘争を起すことを決意、そして7月4日に蜂起開始の決議を可決した。 ジラスはイタリア占領軍に対して闘いを組織するためモンテネグロに送られたが、1941年7月12日、セクラ・ドルリェヴィッチ (Sekula Drljević)によるファシスト傀儡政権モンテネグロ王国 (Kingdom of Montenegro)が宣言され、ムッソリーニの腹心アレッサンドロ・ビロリ (Alessandro Biroli)がイタリア人統治者を務め厳格に支配された。 ジラスはモンテネグロ蜂起 (Uprising in Montenegro)で国家は一つとするイデオロギー方針を広げる重要な役割を果たす、そしてモンテネグロの大部分はすぐに解放された。 ジラスは11月までモンテネグロに滞在した。1941年11月初めにティトーは彼の"レフティストエラー"(Leftist errors)を含む蜂起中におけるミスを理由としてモンテネグロのパルチザン部隊司令官からジラスを退けた。ティトーはジラスが民衆蜂起とともにパルチザン闘争を結びつけるパルチザンのレジスタンス手法を採用する代わりに、軍の正面戦を、はるかに強い敵に対して組織するというミスを強調した。ジラスは党の主要な宣伝機関の機関紙『ボルバ』(Borba)の編集者に任命された。 その後、ジラスはセルビアにある共産系支配のウジツェの町に向かったところで彼の論拠が機関紙『ボルバ』で取り上げられた。 最高司令官ティトーや他党の指導者らのボスニアへの撤退を受けて、ジラスはラシュカにあるノヴァ・ヴァロシュ(セルビア及びモンテネグロの間の境界)にとどまった。冬半ば、彼はそこから彼の指揮下の部隊とともに撤退を開始、そして、最高参謀に合流するのが困難な状況に陥った。この時点で、共産主義や非共産主義の武装勢力の間には深刻な分裂はまだなかった。
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