生い立ちと青年期:絵画と詩
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「アントン・ラマザレス」の記事における「生い立ちと青年期:絵画と詩」の解説
(ガリシア、 1954-1977) ラマザレスは1954年1月2日、スペインガリシア地方ポンテベドラ県の自治体ラリンにある集落のひとつマセイラで生まれた。マセイラの田舎の風景はラマザレスの心象、そして創造のプロセスに大きな影響を与えた。9歳から13歳まで(1963-1969)ラマザレスは、ヘルボンにあるフランシスコ会の神学校に通い、文学、とくにラテン・ギリシャの古典に没頭した。60年代後半から、詩を書き始め、作家のアロバロ・コンキエロ、画家のラクセイロ、マヌエル・ペスケーラと親交を深め、多大な影響を受けた。創造の方法が詩から絵画に変遷するにつれ、ラマザレスは、ゴッホ、パウル・クレー、レンブラント、ジョアン・ミロ、アントニ・タピエス、マヌエル・ミラレス、アルベルト・ジャコメッティ、フランシス・ベーコンといった畏敬する巨匠の作品、そして中世美術、オセアニア美術を自分の目で見るために、ヨーロッパの隅々まで幾度か長期の旅行(1972)をした。旅の終わりにラマザレスはバルセロナに短期間滞在し、工事現場で働きながら、暇をみつけてはマレス美術館、カタルーニャ美術館のロマネスク美術作品を鑑賞した。次に降り立ったマドリッドでは、師であるラクセイロと再び親交を温め、詩人のカルロス・オロサと知り合い、これ以降、オロサとの交友は非常に重要なものとなった。ラマザレスの作品において、常に絵画と詩の対話が行われているからである。1973年、わずか19歳でラマザレスはグループ展や個展に絵を出展し始めた。1975年、徴兵制度により、フェロルで海軍に入隊した。9月27日、ラマザレスは、フランコ独裁時代の最後の処刑が執行されたことを知って、ショックを受けた。ブルゴス裁判の結果、処刑されたポンテベドラ県出身の24歳、ウンベルト・バエナは、彼の友人だったからだ。処刑の知らせを聞いたラマザレスは深く落ち込み、一時は精神病院に入院した。この間に、『Adibal』という詩集を書きあげた。 「20世紀の画家は、人間存在の最も隠された、神秘的な部分を描こうとしてきた。しかし、彼らはそうするとき、いつも白いキャンバスを使っていた。まるで染み一つない無の空間の中で、自分を表現できると言わんばかりだ。私にとって、画家とは、ある面に対して、力をみせつける存在ではなく、自分を取り巻く世界と衝突、そして尊重の関係を作りだすことができる存在なのだ。私がボール紙や木に絵を描くのは、それによって、聖なる領域の重要性を思い起こすためなのだ」 ラマザレス『Enter.arte』2007年
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