フランコ独裁時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/03 02:24 UTC 版)
「サッカーカタルーニャ代表」の記事における「フランコ独裁時代」の解説
1930年代後半のスペイン内戦後、フランシスコ・フランコ将軍は中央集権主義を推し進め、ジャナラリター・デ・カタルーニャ(カタルーニャ自治州政府/自治州議会)を廃止したほか、公的な場でのカタルーニャ語やカタルーニャ旗(サニェーラ)の使用を禁じた。しかし、カタルーニャ選抜はこの時代も定期的に活動を続け、スペイン代表とも2度戦っている。1947年10月19日にはサリアで対戦し、フアン・ベラスコ、マリア・ゴンサルボ、ジョアン・セガーラ、セサル・ロドリゲス・アルバレスなどが出場して3-1で勝利した。しかし、1953年8月9日に行なわれた試合には0-6で大敗した。この時代のFCバルセロナにはクバラ・ラースロー(ハンガリー出身)、ルイス・スアレス(ガリシア地方出身)、エヴァリスト(ブラジル出身)、ヘスス・マリア・ペレーダ(カスティーリャ・レオン地方出身)などのカタルーニャ地方以外の出身者が在籍し、彼らは皆カタルーニャ代表に招待されてプレーした。1955年1月26日にはレス・コルツにボローニャFCを招いて親善試合を行ない、クラバやアルフレッド・ディ・ステファノ(アルゼンチン出身)などがプレーした。クバラが2得点、ディ・ステファノが1得点し、カタルーニャ選抜が6-2で勝利した。1956年9月1日、ディ・ステファノはレアル・マドリードの初代UEFAチャンピオンズカップ優勝メンバーの一員としてレス・コルツに戻った。レアル・マドリードとバルセロナ選抜が対戦し、レアル・マドリードが7-3で勝利した。1976年6月6日にはカンプ・ノウでソビエト連邦と親善試合を行ない、フランコ時代の終焉を迎えた。ソビエト連邦戦ではカルロス・レシャック(ウェールズ出身)、ヨハン・クライフ、ヨハン・ニースケンス(いずれもオランダ出身)などが招待されてプレーし、ニースケンスの得点により1-1で引き分けた。クライフの息子ジョルディ・クライフも何度かカタルーニャ選抜でプレーした。
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