フランコ政権以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 05:46 UTC 版)
1973年。ETAはスペイン首相のルイス・カレーロ・ブランコを彼が乗った車をマドリードで爆破することで殺害。1975年にフランシスコ・フランコが病死し、1977年にはバスク地方にて初の総選挙が実施された。バスク地方の民族主義を掲げた左派政党が勝利を収め、バスク地方は正式な「自治区」として認められるようになったが、1978年のスペイン新憲法ではバスク人をスペイン人として扱う方針としたことでバスク地方での反対運動が発生した。 1983年、スペイン当局は非公式に反テロリスト解放グループ(GAL)を創設。GALは南フランスで活動するETA活動家を高額な報酬で暗殺し、ETA側もGALの指導者を暗殺するなどして対抗した。このようなGALの暗殺は1987年に解散するまで続いた。また、GALの指導者らはその翌年の1988年に逮捕され長期刑に服している。 1987年にはETAの最高指導者ドミンゴ・イツルベ・アパソロが亡命先のアルジェリアで事故死したことから後継者としてフランシスコ・ムヒカ・ガルメンディアが指名されたが、1992年にガルメンディアほか主要な幹部がフランスの対テロ特殊部隊および国境警備隊に逮捕され、組織の再編に取り組んだイニヤキ・ビルバオもまたフランス警察に逮捕されたことにより、ETAは一時壊滅状態に陥った。
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