フランコ独裁体制からフアン・カルロス1世の立憲君主制へ
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「スペイン・ブルボン朝」の記事における「フランコ独裁体制からフアン・カルロス1世の立憲君主制へ」の解説
第二共和政樹立とともに王位を追われたアルフォンソ13世はフランスへ亡命し、その地でカルリスタの王位請求者マドリード公ハイメと会談して、カルリスタと事実上「和解」した。1936年にマドリード公の叔父でカルリスタ系最後の男系男子であるサン・ハイメ公アルフォンソ・カルロスが男子を儲けることなく没すると、サリカ法上でもアルフォンソ13世がブルボン家筆頭となったことから、カルリスタは一致して推戴すべき王位請求者を失って内部分裂し、衰退した。 アルフォンソ13世には3人の男子が生き残っていたが、長男のアストゥリアス公アルフォンソは貴賤結婚により王位継承権を放棄した。次男のセゴビア公ハイメも障害のため放棄したが、後にフランス王位請求権の継承を主張して「アンリ6世」と称した。結局、四男のバルセロナ伯フアンが王位継承者となった。 1941年にアルフォンソ13世が死去し、名目上の王位を継承したフアンは、フランコと王位奪還に向けて交渉を行った。フランコはフアンがリベラルであることから嫌っていたが、その長男フアン・カルロスを後継者とすることで合意する。フランコの許で教育を受けたフアン・カルロス王子は、1975年のフランコの死去とともに フアン・カルロス1世として即位したが、フランコの独裁体制を継承はせず、立憲君主制への移行を進めた。父フアンは1977年に自身の王位請求権を放棄したが、1993年に死去した後、エル・エスコリアルの修道院に「スペイン王フアン3世」として葬られた。 フアン・カルロス1世は2014年、長男のフェリペ6世に譲位した。
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