フランス王位請求
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「エドワード3世 (イングランド王)」の記事における「フランス王位請求」の解説
フランスでは1314年にフィリップ4世が崩御し、その第一王子ルイがルイ10世として即位したが、わずか2年で崩御。ルイの娘ジャンヌへの王位継承を求める声もあったが、クレマンス王妃が妊娠中であり男子が生まれる可能性があったため、出産を待つ間ルイの弟フィリップが摂政に就任。その後クレマンス王妃は男子ジャン1世を儲けたものの、ジャン1世が生後5日で崩御したため、すでに権力を掌握していたフィリップがジャンヌ擁立派を退けてフィリップ5世として即位した。しかしフィリップ5世も1322年に女子しか残さず崩御し、前例から異論なく末弟シャルル4世が即位。1328年にシャルル4世が崩御した時、ジャンヌ王妃が妊娠中だったのでその出産を待つ間、フィリップ4世の弟の子ヴァロワ伯(フランス語版)フィリップが摂政に就任した。生まれたのは女子だったのでそのままヴァロワ伯がフィリップ6世としてフランス王に即位し、カペー朝からヴァロワ朝となった。 だがルイの娘ジャンヌへの王位継承を求める声もあったように女子はフランス王になれないというのは当時はまだ確立した慣例ではなかった。男子が優先される慣例はあったものの、女子だと戦場に立つことができないという問題からそうなっていたに過ぎないとも言われる。当時の社会通念上男子しか認められないのはローマ皇帝(神聖ローマ皇帝)とローマ教皇だけであった。そのためエドワード3世は分家に過ぎないヴァロワ伯よりはフィリップ4世の娘イザベラの子である自分の方がフランス王位の正統な継承者だと考えていた。 だがカペー朝が断絶したこの1328年にはエドワード3世はまだ15歳の少年王であり、母とモーティマーの傀儡だった。対してヴァロワ伯は当時35歳の貫禄あるフランス大諸侯であり、摂政としてフランス政界に君臨する人物だったため、フランス貴族はこぞってヴァロワ伯の王位継承を支持していた。エドワード3世はフランスに在住していない点でも不利であり、王位継承権者としてほぼ無視されていた。 フィリップ6世が即位したとき、エドワード3世は一度臣下の礼を取ることを拒否したが、後日しぶしぶ了承し、1329年2月にフランス・アミアンへ赴いてアキテーヌ公としてフィリップ6世に臣従の礼を行い、フィリップ6世の即位を認める形となった。 しかしカペー朝の国王と違ってイングランド王室と血縁関係がないフィリップ6世はスコットランドと呼応してイングランドに敵対姿勢を取った。その極め付けが1337年5月にフィリップ6世がアキテーヌ公領の没収を宣言し、フランス軍をガスコーニュに侵攻させたことだった。これに対抗してエドワード3世は同年10月7日に母イザベラの血を根拠にフランス王位を請求し、11月1日にフィリップ6世に対して宣戦布告した。 実際にエドワード3世がフランス王の称号を名乗りはじめたのは1340年1月26日からである。この年にフランス・フランドル伯領のヘントにおいて自分がフランス王であることを宣言している。またこの年からイングランド王室紋章のシールドを四分して第1と第3クォーターにフランス王の紋章のユリの花(フルール・ド・リス)、第2と第4クォーターを従来のイングランドの3匹の歩くライオンの物にした。
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