フランス王国のユダヤ追放令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「フランス王国のユダヤ追放令」の解説
1389年2月のフランス王国勅令で、キリスト教徒とユダヤ人との間の紛争は「ユダヤ護衛官」が担当し、またユダヤ人には債務者を収監する権利が認められた。しかし、王国では反ユダヤ勢力が強くなっていったため、シャルル6世はユダヤ教の「贖罪の日(ヨム・キプール)」と同日の1394年9月17日にフランス王国で最終的なユダヤ追放令を発令した。このユダヤ追放令は1615年にも更新された。 ただし、フランス王国以外の教皇領やプロヴァンス伯領ではユダヤ共同体が存続した。しかし、プロヴァンス伯領でも1420年代からポグロムが発生した。ルネ・ダンジュ−プロヴァンス伯はユダヤ財力を利用するためにユダヤ人を保護したが、1473年以降教会と民衆のユダヤへの反感ははげしくなった。ダンジュ−死後1481年にプロヴァンス伯領はフランス王国へ合併されたため、ユダヤ人は離散した。 1394年のフランスでのユダヤ追放令以降は、ユダヤ人は領土が細分化していた神聖ローマ帝国に移っていったが、そこでもまた追放が続いた。
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