護衛官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/23 20:58 UTC 版)
「ウォルター・H・トンプソン」の記事における「護衛官」の解説
1921年、トンプソンはチャーチルの護衛官に任命され、1935年に警察を退職するまで務めた。 チャーチルには気に入られており、トンプソンの娘が病気になった時、チャーチルは自分の主治医を彼女の元へ送り、さらに診察費の請求書は自分に送らせたという。しかし、任務上長期間に渡って離れ離れになることが多かった為に家族関係は悪化し、1929年には離婚を余儀なくされる。その後、共に過ごすことが多かったチャーチルの次席秘書メアリー・シェアバーン(Mary Shearburn)と再婚した。 警察退職後は家族と共に食料雑貨店を経営していたが、1939年8月22日にチャーチルから護衛官復帰を求める電報を受け取った。この電報には、「水曜午後4時30分クロイドン空港で私に会う」(Meet me Croydon Airport 4.30pm Wednesday.)とあった。当時、チャーチルは公職には就いていなかったものの、反宥和政策の推進者としてドイツを始めとする諸勢力から命を狙われていた。その為、彼はトンプソンを週給£5(現在の£280相当)で個人的に雇ったのである。第二次世界大戦の勃発を受けてチャーチルが海相に就任し内閣に復帰すると、トンプソンはスコットランドヤードに警察官として復職した。 トンプソンは護衛官として、チャーチルと共に200,000マイルを移動した。またチャーチル自身の無鉄砲な性格もあり、ロンドン大空襲の際に爆弾片に晒された時、IRA(英語版)、インドやアラブの民族主義者、ギリシャの共産党員、そしてナチス・ドイツの工作員といった諸勢力による暗殺計画が実行に移された時、あるいは単なる狂人に襲撃を受けた時など、チャーチルは20回以上も命の危機に晒され、その度トンプソンに救われた。過酷な任務によるストレスから、トンプソンは一時体調を崩し護衛官の職を離れたものの、数週間以内に復帰している。 トンプソンは常にチャーチルと共にいた為、チャーチルの妻クレメンティーン(英語版)は彼を指して「永遠の厄介者」(perpetual annoyance)と称した。1945年、トンプソンはチャーチルの護衛を通じて祖国へ貢献したとして、大英帝国メダル(英語版)(BEM)を授与された。
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