フランコ体制とバスク亡命政府
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/16 19:09 UTC 版)
「バスク民族主義党」の記事における「フランコ体制とバスク亡命政府」の解説
支配領域を失った「バスク亡命政府」は、共和国政府の拠点バルセロナに逃れ、カタルーニャが陥落するとフランス・ベルギーを流転した。ドイツがベルギーを占領すると、アギーレ大統領はベルリンを経てアメリカ大陸に脱出、ブラジル・ウルグアイなどを経てアメリカ合衆国ニューヨークに移動し、バスク系アメリカ人の支援を受けて政治活動を続け、アメリカ合衆国の支援を期待した。第二次世界大戦中は連合国側で働き、戦後の冷戦期はラテンアメリカでの共産主義運動と戦うCIAにも協力している。1952年、アメリカ合衆国がフランコ政権を支持すると、アギーレはフランスに移り、1960年に没した。 フランコ体制下のバスクでは、バスク語の禁止などバスク民族運動の弾圧が行われる一方、破壊を免れた工業施設によって経済発展がもたらされた。アメリカ合衆国の支援を頼みとする亡命政府の影響力は低下し、その指導を受けるバスク民族主義者党の活動も穏健化した。 1959年、党の穏健方針に飽き足らない青年部の一部メンバーによって、バスク独立を掲げるETA(バスク祖国と自由)が結成された。1960年代にはETAの運動はマルクス主義者が主導し、資本主義国家スペインとの闘争のために、バスク人の民族意識を鼓吹するとともに、スペイン社会を揺さぶる活動をおこなった。
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