フランコ体制下(1939-1975)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/19 17:25 UTC 版)
「カタルーニャ語文学」の記事における「フランコ体制下(1939-1975)」の解説
1930年代のスペイン内戦後のフランコ独裁体制ではカタルーニャ語が弾圧され、他国に亡命したカタルーニャ語作家も多く、自らのイデオロギーを隠してスペイン語で執筆する決断をした作家もいた。1950年代にはカタルーニャ地方/カタルーニャ語への弾圧が弱まり、スペイン語で書きはするものの独裁体制への懸念を隠さないカタルーニャ人作家が現れた。社会問題を作品に反映させた小説家には、カルメン・ラフォレット(スペイン語版)やアナ・マリア・マトゥテ、彼女らよりやや若いフアン・マルセーなどがいる。この時代の詩人は「50年代の世代」と呼ばれており、ハイメ・ヒル・デ・ビエドマ(スペイン語版)、カルロス・バラル(スペイン語版)、ホセ・アグスティン・ゴイティソーロ(スペイン語版)、コレドール・マテオス(スペイン語版)、エンリケ・バドーサ(スペイン語版)などがいた。 1960年代になるとようやくカタルーニャ語文学の出版も可能となり、1961年にはカタルーニャ語で歌うノバ・カンソー(スペイン語版)(新しい歌)運動が文学界にも影響を及ぼした。カタルーニャ語の限界を追求したジュゼップ・ビセンス・フォシュ(スペイン語版)、内戦後もバルセロナで暮らしたサルバドー・アスプリウ(スペイン語版)などの詩は国外でも広く知られている。マヌエル・ダ・ペドロロ(スペイン語版)の『第二創世記のタイプ原稿』はカタルーニャ語文学史上最大の売り上げを記録している。マヨルカ島を舞台にした小説を書いたバルタサー・プルセル(スペイン語版)、『引き船道』などを書いたジャズス・ムンカダ(スペイン語版)は、いずれもノーベル文学賞の候補に推された。 フランコ政権末期には実験的なスタイルを支持するカタルーニャ人作家として、フアン・ゴイティソーロとルイス・ゴイティソーロ(スペイン語版)のゴイティソーロ兄弟(長男は前述のホセ・アグスティン)がいる。多彩な才能を発揮したマヌエル・バスケス・モンタルバン、テレンシ・モッシュ(スペイン語版)なども、ユーモラスかつ皮肉的な感覚を作品に取り入れて人気を博した。
※この「フランコ体制下(1939-1975)」の解説は、「カタルーニャ語文学」の解説の一部です。
「フランコ体制下(1939-1975)」を含む「カタルーニャ語文学」の記事については、「カタルーニャ語文学」の概要を参照ください。
フランコ体制下(1939-1975)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/09 07:43 UTC 版)
「カタルーニャの歴史」の記事における「フランコ体制下(1939-1975)」の解説
1939年以後のフランコ体制下のカタルーニャでは、カタルーニャ語とカタルーニャ・アイデンティティの象徴に対して厳しい弾圧がなされた。自治政府や自治憲章が廃止され、首相のクンパンチは銃殺されたほかに、多くの共和国支持者が投獄・処刑された。カタルーニャの伝統的音楽・祭礼・旗、カタルーニャ語の地名や通り名が禁じられ、スペイン継承戦争後にカタルーニャ自治の象徴となったカザノバの像は撤去された。1939年から1953年までのカタルーニャ地方では、クンパンチも含めて3,585人が軍法会議にかけられて銃殺された。 国際的孤立やマーシャル・プランからの除外などが影響して、1940年代のスペイン経済は壊滅的な状況にあった。さらには、フランコはスペイン内戦時に人民戦線の支配下にあったカタルーニャやバスク地方以外の地域での産業振興を行い、1950年前後までのカタルーニャ経済は停滞を余儀なくされた。工業指数が1930年の水準に戻ったのは1951年のことであり、部門別労働者比率でも1930年と1950年は似たような値を示している。 1960年代から1970年代初頭のカタルーニャでは急速な経済成長が起こり、外国資本の投資や観光客が増加した。労働力が農業から工業やサービス業に転換。観光業・関連サービス業・商業・金融業などの第三次産業が発展し、金属・化学・建設などの工業生産指数も伸びた。バルセロナには国策自動車会社セアトの工場が建設され、小型車セアト600は高度成長のシンボルとなった。観光業の発展によって、ヨーロッパ北部からコスタ・ブラバなどに多数の観光客が押し寄せた。 1961年にはノバ・カンソー(英語版)運動(新しい歌)がカタルーニャ語の復権に先鞭を付け、カタルーニャ語教育への関心も高まった。1967年には文化支援団体オムニウム・クルトゥラル(英語版)が設立され、カタルーニャ語講座や文学コンクールの主催、民間教育機関の設立などを行った。1971年には反フランコ派が結集してカタルーニャ会議が結成された。
※この「フランコ体制下(1939-1975)」の解説は、「カタルーニャの歴史」の解説の一部です。
「フランコ体制下(1939-1975)」を含む「カタルーニャの歴史」の記事については、「カタルーニャの歴史」の概要を参照ください。
- フランコ体制下のページへのリンク