1939年-1975年:フランコ体制下の非合法化期
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1939年内戦は反乱軍側の勝利に終わり、政党は禁止され、政治的自由は奪われた。カタルーニャでは自治政府機関は廃止され、公的機関でのカタルーニャ語の使用は禁止された。ERCとその党員に対する第二共和国時代、内戦時代の活動について厳しい追及が行われた。ERCのHPによると「(内戦前の)党員70,000のうち半数が、亡命を余儀なくされ、4分の1が投獄され、あるいは処刑された」とされている。 ERCは非合法化され、一部の党指導者たちはリュイス・クンパンチ率いるカタルーニャ亡命自治政府が設立されたフランスへと亡命し、またあるものはカタルーニャへ残り、マヌエル・ジュリアックス、ジャウマ・セラを中心に抵抗組織の設立を目指した。 1940年ナチス・ドイツがフランスを打ち負かし、占領、スペイン政府の要請でリュイス・クンパンチがゲシュタポに逮捕された。クンパンチはスペイン側に引き渡され、1940年10月15日バルセロナのムンジュイック城(スペイン語版)で銃殺刑に処された。 1943年フランス亡命中のERC党員がシャルル・ド・ゴール将軍側の代表と協定を締結、民主主義とフランス共和国を取り戻すためのファシズムとの戦いを行うためにフランスのレジスタンス活動に加わることとなった[要出典]。 1945年第二次世界大戦が終結し、連合国軍へのスペイン進攻によってフランコ体制の崩壊の可能性を想定した亡命ERCの党執行部はペラ・プッチ・スビニャーとジュアン・ロドリゲス=パパセイトの2人のリーダーをカタルーニャに送った。そしてフランスが解放され、トゥールーズにおいてジュゼップ・イルラ党代表のもと党大会が開催され、ジュゼップ・タラデーリャスが新書記長に選出された。 1952年亡命先から、自治政府の閣僚であったマルティー・バレーラの息子アリベルト・バレーラが帰国、ERCの執行部に入る。 1950年代ERCはカタルーニャ民主主義評議会並びに民主主義勢力評議会に加盟。 1954年ジュゼップ・イルラが党代表を辞任、ジュゼップ・タラデーリャスが党代表に選出された。 1958年ジュゼップ・イルラがフランスで死亡した。 1959年ジュゼップ・タラデーリャスが亡命カタルーニャ自治政府首班に選出された。 1964年の9月11日(カタルーニャ民族の日)、ERCは他の非合法化されたグループとともにバルセロナで、内戦終結後初めて反フランコ体制デモを組織した。 1960年代を通じてERCは、ヨーロッパ運動カタルーニャ評議会(Consejo Catalán del Movimiento Europeo)、カタルーニャ社会民主主義事務局(Secretariado de la Democracia Social Catalana)、カタルーニャ政治勢力調整委員会(Comisión Coordinadora de Fuerzas Políticas de Cataluña)に次々と加盟した。
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