1939年9月の計画
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「FCM F1」の記事における「1939年9月の計画」の解説
1939年9月に第二次世界大戦が勃発した際、1941年に予定されたドイツへの攻勢を準備するため、重戦車を運用可能とするいくつかの緊急措置が取られた。とはいうもののフランスの最高司令部は超重戦車の計画に大きな信頼を持たず、低地の国々が期限内に協約参加を拒否するならば、これらの国々との中立性を破ってヴェストヴァルを迂回しようと意図していた。スケルトン・タンクは先進的に過ぎ、放棄された。急いだにもかかわらず実際の進捗がないため、全ての努力を1つの設計に集約することはできなかった。同様にいつ稼動する試作車が供給されるかもいまだに不透明であった。そこで10月、FCM、ARL、AMXの3社は、各社が異なる2種の試作車の発注を受けた。総計で6種類のモデルである。シャール F1では求められなかったが、これらは既存の鉄道貨車に適合するよう求められた。火炎放射器のモデルは放棄された。 1939年12月22日、より正確な仕様が作られた。FCMでは75mm砲を載せてF1を完成させる事とされた。ただ、F1の車体の上部構造に90mmか105mm砲を載せて製造することも目指された。これは75mm砲の威力が弱すぎる可能性のためである。シャール F1が100mm厚の装甲で設計されたように、この車両も前面120mm厚に強化された。副砲塔は47mm砲を載せ、後方を防御するものとされた。AMXとARLの車両も105mm砲か90mm砲を砲塔に収めた――フランス戦車の常のように砲塔は各々独立している設計である――また副砲塔に47mm砲を載せた。この月、FCMとARLは両社とも1940年夏に試作車の組み立てに入り、一連の車両製造は1941年の終わりとの見込みを示した。AMXがなにがしか正確に製造を予期するには時期尚早だった。ARLは1940年1月17日にシュナイダー社から4基の砲塔を発注された。だが2基の105mm砲塔のみ合意がなされ、単にこれらを生産する余剰性は無いとして90mm砲用の砲塔は拒否された。 1940年2月、SEAM(Société d’Études et d’Application Mécanique、機械研究・応用会社)はポーランド人技師であるアンドレ・ポニャトフスキ王子の設計による戦車を提案した。これは極めて巨大な車両で重量は220tに達した。駆動は出力925馬力のイスパノエンジン2基、ガソリン・電気式のトランスミッションを用いる。車体幅が5m、車体長が12mと縦横比に優れ、旋回が容易であることが指摘されたため、この計画が推奨された。輸送するため、この車両は全長にわたって左右に2分割することができた。この案は1940年4月20日に国防省により却下された。 1940年3月4日、超重戦車計画を監督する新しい小委員会は、90mmまたは105mm砲塔の設計が準備されたこと、つまり紙上のものであることを理解した。スケジュール上望みがないほどの遅延により、AMXの計画を放棄することが決意された。トラクターCは1941年7月まで準備ができず、AMXは4月1日に開発を終了した。小委員会ではFCM F1とARLトラクターCの両試作車の計画を推進し、すぐに前車を10両から15両発注するよう進言した。この進言は戦車研究のための新しい包括委員会に届き、ARLは1940年4月11日に木製のモックアップを1基発表した。翌日にはFCMも1基を発表した。FCMの計画はずっと先進的で、新しい戦車の全てを詳細に示せると判明した。この設計では前面装甲に傾斜装甲を採用し、仕様の代わりに小型砲塔を前方へ置き、後方の砲塔は丈が高められて仕様の75mm砲の代わりに90mm砲を搭載した。本車の計画重量は140tで、2基のルノー製550hpエンジンを用いて24km/hで移動し、電気式の変速装置を用いた。委員会はARLの計画を放棄し、FCM F1に12両の事前発注を出した。配備は1941年5月以降、月に3両から4両とされた。1941年の夏には何両かの戦車を用意できるというこの予想はとても重要な検討事項であり、このとき重戦車の計画全体が、こんな車両は膨大な資源の無駄であってより多数のシャール B1を生産したほうが良いとする観点から強い反対に直面していた。また委員会ではFCMに全周120mm厚の装甲防御をほどこすよう要求した。しかしこれは重量を145tに増やし、最大速力を20km/hに減らすものだった。委員会にとってこれは、将来の「Char de Forteresse」(要塞戦車)に対する、以前の決定からの脱却だった。
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