1939年 – 1947年:アメリカ
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「ヴィルヘルム・ライヒ」の記事における「1939年 – 1947年:アメリカ」の解説
アメリカではニューヨークに住んだ。ニュースクール社会研究所( New School for Social Research)において准教授の身分で医学心理学の教鞭をとる傍ら、フリースクールの代表であるサマーヒル・スクールを設立したA・S・ニイルに分析を行い、以後投獄期間中も含めて親しく交流を持つ。 アメリカに移住後、生命エネルギーの概念として、「生命体(organism)」と「オーガズム(orgasm)」を組み合わせ「オルゴンエネルギー」という造語を生み出した。1940年、彼はオルゴンを集めるというオルゴン集積器を作り始め、ファラデーケージを改造し、ガン患者に効果があると主張した。この本は、1927年にウィーン精神分析学会の実行委員会への任命を手配したフロイトからも含めて、彼に専門的な認識を勝ち取った。1940年にメーン州レーンジュエリーに転居、支援者によりオルゴン研究所「オルゴノン」でロバート・マッカローらとともにオルゴンの研究に取り組み、オルゴンを集めるというオルゴン集積器(オルゴン・アキュムレータ、オルゴン・ボックス)を作り始め、ファラデーケージを改造し、ガン患者に効果があると主張した。実験用のがんマウスをファラデーケージに入れておくと、顕著な効果があると考え、人間が中で座れるサイズのケージを作った。これがきっかけとなり、「セックスボックス(マスコミによるオルゴン集積器の蔑称)」で癌が治ったという新聞記事が出た。 この研究所で作られたものとして他に、オルゴン放射器のクラウド・バスターなどが挙げられる。 1951年1月 ORANUR計画の実行を開始した(ORANURはOrgone Against Nuclear Radiationの略である)。 また1951年、自著Cosmic Superimposition(「宇宙的重なり合い」という意味)を刊行。オルゴン理論を天体へと適用した書である。 1947年に『ザ・ニュー・リパブリック(英語版)』と『ハーパーズ・マガジン』に彼に関する2つの批判記事が掲載された後、1954年にFDA(米国食品医薬品局)により、オルゴン・ボックスの販売はがん治療機の不法製造販売にあたる、として裁判を起こされた。裁判所はオルゴン・ボックスの販売禁止を命じ、同時にライヒの全著作の出版の差し止めを命じた(なお、オルゴン・エネルギー理論に触れていない他の著作群に関してまで出版差止め命令が出されたため、言論弾圧、焚書が行われた、との批判・論争が巻き起こった)。 ライヒが命令に従わなかったため、1956年に連邦裁判所は法廷侮辱罪に当たるとして2年の禁固の刑、およびライヒの財団に1万ドルの罰金の刑を宣告した。ライヒは上告し保釈されたが、結局1957年に収監。11月3日にコネチカット刑務所において、仮釈放を申請する予定だった日に心不全で死亡した。
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