1939年 - 1956年:名声の高まりと死
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「ジェラルド・フィンジ」の記事における「1939年 - 1956年:名声の高まりと死」の解説
第二次世界大戦の勃発により、三教区合唱音楽祭(Three Choirs Festival)における《降誕祭Dies natalis 》の初演が遅れていなければ、大作曲家としての名声を確立することができたかもしれない。フィンジは戦時移送省(the Ministry of War Transport)に務め、ドイツやチェコスロバキアからの亡命者を自宅に泊めた。戦後は、以前よりやや活発に創作し、いくつかの合唱曲のほかに、おそらく最も有名なクラリネットと弦楽のための協奏曲(1949年)が作曲された。 このころには、フィンジの作品が三教区合唱音楽祭などで頻繁に上演されるようになった。だがこの幸福は長続きしなかった。1951年に、ホジキンリンパ腫に罹り、長くともあと10年しか生きられないと宣告された。この告知の後のフィンジの感慨は、非常に感動的な最後の大作、チェロ協奏曲(1955年完成)の第1楽章におそらく反映されている。一方、もともと愛妻の音楽的肖像として発想された第2楽章は、非常にのどかである。 1956年にヴォーン・ウィリアムズとグロスター近郊を周遊し水痘にかかるが、これは衰弱していたフィンジーの体調にさらなる負担となり、重症の脳の炎症を引き起こした。間もなくオックスフォードの病院でチェロ協奏曲の初演のラジオ放送を聴いた翌日死去した。
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